先にたってマリエを案内してくるサンジの顔を、そこにある微笑をなんとなく見ていられなくなった
アキはゾロを見た。さっきまで随分厳しかったゾロの顔にはいつもの笑みが戻っていた。
「お前が緊張するな」
そうか、自分は緊張しているのか、と納得する
アキだった。
サンジは慣れた静かな動作で椅子を引いてマリエを座らせた。
「食事の前に軽く飲み物をいかがですか?」
「あなたがわたしに飲ませたいと思うものを」
マリエが微笑した。
一瞬、サンジが小さく息を飲み込んだのを
アキは感じた。
「かしこまりました」
それでもよどみなく答えたサンジはその時初めて
アキとゾロの顔を見た。そして、また微笑を見せ、テーブルを離れた。
身体には出ていなくても心は震えている。
アキは感じた。テーブルに残された空になったゾロのグラスがそれを証明しているように思えた。いつものサンジなら気がつかないはずはな い。
「こんばんは。この間はありがとう。あなたたち3人、とても素敵で目立っているわ」
マリエは
アキとゾロに順番に目を向けた。
「マリエさんは黒がとてもお似合いですね」
アキの声には純粋な賞賛の響きがあった。マリエは穏やかな顔で
アキを見た。
「思ったとおり、かわいい人ね」
赤くなった
アキを見て笑いながらマリエはゾロの顔を見た。
(面白がってるな、こいつ)
実は
アキとマリエの組み合わせを先に面白く眺めていたゾロは口角を上げた。あの日マリエの店でサンジに対するマリエの態度、そして他の客や ゾロに対するマリエの様子を見たゾロは、マリエに関しておおまかな判断をした。その中で少し別の感じを受けたのが
アキと向かい合っているときのマリエの顔だった。誰に対しても1本線を引いていたように見えたマリエが
アキにその線を越えさせた、いや、マリエが自分でその線を越えたようにゾロには見えた。
そして今も。
「誰かが作ってくれる食事はとても久しぶりなの。楽しみだわ」
そこへサンジがリキュールグラスとワインのボトルを持って歩いてきた。浴衣の上からかけたたすきの白い色が帯と揃ってよくあっていた。
「甘さが控えめで胃袋の目を覚ましてくれるお薦め、アンズのリキュールをどうぞ。もうすぐディナーをお出しできるんですが、その前に挨拶と乾杯があるみた いなんでワインも入れていきますね」
テーブルにセットされたグラスに透明に近い色のワインを静かに切れよく注ぐサンジの手を
アキは見つめた。そっとボトルを持つ形のよい力のある手。うるさい気配を感じさせない腕の動き。
「
アキちゃん、本気モードの目になってる」
顔の横で囁かれて我に返った
アキを見てサンジが小さく笑った。
「あの2人が好き?」
アキとサンジを眺めていたゾロにマリエが小声で話しかけた。
「この間の話の続きか」
ゾロはマリエの方を見なかった。
「あなたにはもしかしたらあの2人が眩しいのかしらと思ったの。だから、わたしにはあなたたち3人が全員眩しいことを言っておこうかと思って」
「やっぱりあんたの話はよくわからねぇ。・・・ああ、アホコックには多分あんたがえらく眩しいらしいけどな」
テーブルを離れていくサンジにもゾロの言葉の最後の部分は聞こえたかもしれないと
アキは思った。少なくとも
アキには聞こえた。ゾロは
アキの視線を受け止めて肩をすくめた。
「あ・・・」
マリエの口から声が漏れた。
オーナーのゼフと一緒にスーツ姿の男が特別に設置されたステージの下に現れた。その茶系の上等そうなスーツを着た初老の男はマイクを持って一礼した。
「マリエさん、知ってる人?」
尋ねる
アキにマリエはひとつ頷いた。その頭の動きと一緒に髪が流れて幽かな香りが漂った。視線はじっと男に向けられている。マリエから目を離 せなくなった
アキはマイクを通して聞こえる挨拶から男が数多くのマジシャンたちを応援し援助している人物であり、ゼフの友人であることを知った。今 日の集まりを考えたのが彼だったのだ。セジロと名乗ったその男は短く挨拶をまとめて再び一礼した。そして顔を上げたとき、彼の目はまっすぐにマリエの視線 とぶつかった。驚きの表情がセジロの顔に浮かんだ。
セジロの挨拶に続く乾杯終了と同時にウェイターたちが前菜の皿を運びはじめた。
アキたちのテーブルに向かうサンジの姿が見えた、と思ったとき、それを偶然遮るようにセジロの姿が急いだ足取りでやってくるのが見え た。
「マリちゃん、君なのか。いやぁ、信じられない」
感じの良いその主催者は近くで見ると割りと小柄だった。恐らく
アキと同じくらいの身長だろう。丸みを帯びた身体にぴったりと合っているスーツはオーダーメイド。「安穏」という言葉を連想させる顔に 浮かんだ嬉しそうな表情が年齢よりも若々しい。
「ご無沙汰しております。もしかしたらと思っていました・・・この会の話を聞いた時。お会いできて嬉しいです」
マリエの真面目な眼差しと声は、
アキとゾロには初めてのものだった。
「よろしかったらこちらの席へどうぞお座りください。お食事をご一緒されますか?」
空いている椅子を引いたサンジを
アキは見上げた。そこはサンジの席のはずだった。ディナーが終わった後に座るはずの、マリエの隣りの椅子。
「あ、ああ・・・そうしたいのは山々なんだが向こうのテーブルには昔からの仲間がいてね。そうだ!マリちゃん、君が向こうに来たらどうだい。君が知ってる 人間が何人もいるよ」
セジロを見るマリエの顔に見慣れた表情が戻った。微笑みかけるマリエから色香が漂った。
「わたしも今日は楽しみにしていた約束なんです。後で機会がありましたらまたお話させてください」
「わかった。そういうことなら、後でぜひ、また」
セジロは笑顔で席を立った。
「やっぱり・・・・狭いものね、こういう世界は」
男の後姿を見送るマリエの声は低かった。
「さあ、それじゃあ前菜の説明をさせていただいてよろしいですか?」
サンジの明るい声が響くとマリエは微笑んだ。
前菜各種を器用に3人の皿に盛りつけるサンジの口から料理の特徴がすらすらと流れ出る。
最後にワイングラスの中を確認して満たした後、サンジは1歩下がった。
「ちょうどショーがはじまるところですね」
明かりが落ちた。
1人の男がステージに向かって歩きはじめた。
「あ」
「・・・あの野郎か」
アキとゾロの声が重なった。優雅と言っていい身体の動きで段を上って頭を下げた男は、先刻
アキに話しかけたあの男だった。
深く息を吸い込むような音がした。
そちらを見なくても伝わってくる張り詰めた空気を感じた。
マリエの血の気を失った顔。大きく見開かれた瞳。
しかし、
アキがすぐ視線を移したのはテーブルの横に立つサンジだった。驚き、心配、理解・・・そんな表情がゆっくりとサンジの顔を過ぎていった ように見えた。そして残ったのは淡い微笑だった。優しい、見守るような表情とトレーの縁を握る指先から伝わる抑えられている衝動。
「サンジく・・・・」
アキが言いかけるとサンジは唇に指を1本あてた。それから数歩さがって背を向けた。
「ほら、これがアホコックのお薦めだぞ」
ゾロが自分の皿から
アキの皿に詰め物をした大き目のラザニアを載せた。すでにサンジが
アキの皿にひとつ載せておいたのと同じものだった。
「これだけあればしっかり味わえるだろ」
アキが頷くとゾロはパンの籠に手を伸ばした。
「冷たいものは冷たいうちにって、あいつ、うるせぇからな」
ゾロの言葉に我に返ったのは
アキだけではなかった。
マリエはグラスのワインを一気に半分ほど飲み、血の気が戻った顔で息を吐いた。
「幽霊を見た気分ってこんな感じかしら。ごめんなさいね」
ステージの上ではマジックショーがはじまっていた。
男の腕は確かなようだった。ライトアップされたステージの上で何をどう見せたら効果的かを心得て意識した動きをアキは感じた。懐かしいようなマジックの ひとつひとつを丁寧に見せていく姿には、
アキに話しかけた時の浮ついた雰囲気はなかった。
「慌てないでゆっくりお召し上がりください」
サンジがスープの皿を配りはじめた。
「ショーの邪魔になったらいけないから、説明は省くね」
そう言ったサンジの顔はよく見えなかったが、顔を上げた
アキの肩にそっと触れる温かさがあった。
サンジはすぐにテーブルを離れたが、きっとどこからかマリエを見守っているだろう。
アキは香りのよいスープを口に運んだ。マジックに興味がない訳ではなかった。「タカヤ」という名前らしいあのマジシャンとマリエの関係 も気になった。でも。それより何よりも、
アキはレストランの中の暗さが嫌になっていた。料理を引き立たせる明るい照明の下で楽しそうに説明するサンジの声を聞きたかった。そし て、そういうサンジをマリエに見せたかった。
「おいしいわ、とても」
マリエの声が聞こえた。気持ちがこもった声だった。
マリエはステージに完全に背を向けていた。
「見なくて・・・いいんですか」
アキの声にはためらいがあった。また、他人の領域に踏み込んでしまっている気がした。お節介という名の暴力かもしれないと思った。
「あの人のステージは見なくても全部知ってるわ」
マリエの声は穏やかだった。
「いえ、違うわね。全部じゃないわ。ここ数年のネタは知らないもの」
「あなたが・・・ステージを下りる前の?」
マリエは顔を上げて
アキを見た。感情の大きな動きが見えた。マリエは目を伏せ、睫が弧を描いた。
「ええ。そういうことね」
再び顔を上げたマリエはちらりとステージを見てから
アキの顔を覗いた。
「そんな顔をしないで。こんなことを話すつもりはなかったけれど、あなたには言いたくなってちょっと言ってしまったんだから。ディナーを楽しみましょう」
アキは頷くしかできなかった。
ゾロの手が伸びて3人のグラスを満たした。
「さあ、お待たせしました、メインです。これはぜひ焼きたてのうちにお召し上がりください」
絶妙としか言いようのないタイミングでサンジが現れた。
「この海老はね、最高の状態で店に来たんだ。ほら、
アキちゃんもマリエさんも一口食べてみて。食べやすいように切って来たから」
甘みのある身が香ばしいガーリックの香りと一緒に口の中で溶けるような感覚だった。
アキとマリエの顔に浮かんだうっとりした表情をサンジは無言で見つめた。そして目を閉じた。祈りとも、自分の心に何かを言い聞かせたと も見えるサンジの顔・・・
アキは目を逸らしてワインを飲んだ。
デザートとコーヒーが運ばれた頃、ショーは終わって照明がついた。
なんとなくタカヤを目で追った
アキは彼が奥に姿を消すのを見た。多分これから1人で夕食をとるのだろう。
たすきを外したサンジがトレーを持って歩いてきた。
「クソジジイのとっておきのブランデー、飲んでみる?」
マリエの隣りに座ったサンジの顔にはあまりに明るい笑顔があった。
「ほら、乾杯しよ」
4人はグラスを上げた。
アキはグラスを持ったまましばらく香りをきいていた。それからゆっくり一口飲むと、喉が焼けた。
「慣れてねぇな」
ゾロは
アキの手の中のグラスを取り上げ、すでに半分ほど減っている自分のグラスを代わりに持たせた。
かろうじて咽そうなのを我慢した
アキは一息ついた。
「ありがとう。濃厚そうなお酒はあまり飲んだことなくて」
「氷と水を足してこようか?」
サンジが手を伸ばすと
アキはグラスを引っ込めた。
「大丈夫。もったいないからこのまま少しずつ味わってみる」
「それが正解だな」
マリエは3人を見ていた。
その視線に気がついたサンジはマリエを見た。
出会った2人の視線は何秒間か動かなかった。
「お邪魔していいですか?」
4人は同時に声が聞こえた方を向いた。黒いスーツ姿の若い男が立っていた。手に持っている黒いマットを見て、サンジが立ち上がった。
「そうそう、お楽しみはまだあったんだよね」
男はサンジが持ってきた椅子に座り、テーブルの上にマットを広げた。見れば、他のテーブルにも同様の光景があった。テーブルマジックの実演。
アキたちのテーブルを担当するマジシャンはどうやら年齢的には3人と同じくらいに見えた。
4人の顔を順番に見た男は笑顔を全開にした。
内心、
アキはその男を気の毒に思った。
15分後、若いマジシャンの額には汗が浮かんでいた。彼が当ててみるように言ったカードやタバコの在り処、消えたボールの行き先はことごとく看破され た。微笑したマリエの美しい指先がマジシャンが描こうとした嘘の空間を無にしていく。男はサンジが持ってきた水を一気に飲み干した。
気配を感じた
アキは近づいてくるタカヤの姿を視界にとらえた。その
アキの顔を見てマリエは背中をピンと伸ばした。ゾロは腕を組み、サンジは空になった皿とカップをトレーに載せた。
「一番手ごわいテーブルと言うのはここかな」
聞き覚えがある甘い声が近づいてくる。その姿は
アキとゾロからは見えるが、背を向けているマリエとサンジには見えない。そして、タカヤにはマリエとサンジの顔は見えない。
「やあ、さっきの浴衣の・・・・」
言いかけたタカヤの視線が前を向いているマリエの横顔に落ちた。優雅だった足取りが止まり、彼は一瞬言葉を失った。
「マリエ・・・」
「久しぶりね、タカヤ」
2人の視線が絡み合った。
アキとサンジはほとんど一緒に立ち上がった。
「俺・・・俺たち、ちょっと俺の部屋で飲み直して・・・」
ゾロはそんな2人を見てため息とともに立ち上がった。
「ほら、あんたも向こうの仲間のところに行くんだな」
訳がわからずに呆けたような表情の若いマジシャンの肩をゾロが1度叩くと、男は大げさに見えるほど飛び上がった。
サンジは素早く酒が入ったグラスを持ってきてタカヤの前に置いた。
マリエはサンジの顔を見上げた。
「30分。それだけ時間を、サンジさん」
「わかった」
マリエのまっすぐな視線を受けてサンジはひとつ頷いた。
3人はサンジを先頭にテーブルを離れた。誰も後ろを振り向かなかった。