手品師 8

イラスト/ 「俺の部屋狭いから、ここでいいよね」

 カラン、と音を立てて下駄を転がしたサンジは床に座ってむき出しの足をテラコッタのタイルを敷き詰めてある床に投げ出した。

「あ〜、気持ちいい〜」

 バラバラに置かれている一人用のソファのひとつに座ろうとした アキは気になるものを感じてサンジの足を見た。そして立ち上がった。

「サンジ君、足・・!」

 サンジが脱いだ下駄の白い鼻緒は両方とも部分的に赤く染まっていた。

「なんだかぬるぬるするなぁって思ってたんだけど、こんなになってたんだ。うわ、ごめんね、 アキちゃん。せっかく選んでくれた下駄なのに。洗ったらとれるかな」

 本当はきっととても痛みがあったに違いない。 アキはサイドテーブルの上の水差しを見つけ、手提げから引っ張り出したハンカチを濡らした。

「あ、いいよ、俺、あとで自分でちゃんと・・・」

 立とうとするサンジの横に駆け寄って膝を落とすと、 アキはサンジの足首に手を置いた。

「ごめんね、ちょっと痛いかもしれない」

 濡れたハンカチでそっと親指の根元の血の跡に触れるとサンジは身体の力を抜いた。

「こういうのも靴擦れっていうのかな。すんげェ久しぶりだ」

 丁寧に拭っていく アキの手元をサンジはじっと見ていた。ハンカチはすぐ赤く染まり、1度洗おうと立ち上がりかけた アキの前にゾロが水を張った洗面器を置いた。

「なんだ、勝手に持ってくるなよ。油断できない奴だな、お前」

「洗っちまった方が早いだろうが」

 ゾロはそのまま2人横で胡坐をかいた。
  アキはサンジの右足を洗面器に入れた。

「あ、 アキちゃん!俺、ほんと、自分で・・・」

 言いかけたサンジは自分の足に触れるハンカチと アキの手の感触に口を閉じた。そっと、静かに、大切にされている、と思った。そう思ったら言葉が出なくなった。

(甘えてんのか、俺)

 サンジは・・・俯いた。

「俺さ、わかっちまったんだ」

  アキは抑えた口調で話し出したサンジの顔を見た。真面目な表情があった。

「セジロさんっていただろ?あの人はクソジジイの友達でさ、なんでか知らねェけど俺のことを結構可愛がってくれたんだ。時々遊びに来てたんだけど、来ると きはいつも土産を持ってきてくれたりさ」

 サンジは煙草を取り出して火をつけた。

「もう何年も前のことなんだけど、俺、覚えてるんだ。うちに来たセジロさん、なんだかすごくいつもと違う感じでさ、クソジジイ相手にたくさん酒を飲んで た。あの時に繰り返し言ってたんだ・・・『惜しい人間を失くした。あんなに魅力的な手品師にはきっともう2度と会えない』って。最初は俺、誰か親しかった マジシャンが死んじまったのかなって思ったんだけど違った。その人は男だろうと思ったけどそれも違った。当時セジロさんが一番惚れ込んで可愛がっていたマ ジシャンは1人の娘だったんだ。綺麗でムードがあって優れた勘とテクニック・・・じきに大きな大会でデビューして脚光を浴びる存在だと思われてた。その人 が・・・事故にあったんだ」

 サンジは煙を吐き出し、 アキはサンジの左足を洗いはじめた。
 ゾロは無言のまま座っている。

「交通事故だったと思ったけど、はたから見れば軽傷で済んだ不幸中の幸いみたいに思えただろう。だって、怪我したのは手だけだったんだ」

 思わず顔を上げた アキにサンジは頷いた。

「それも、動かせなくなるわけじゃない。リハビリすればちゃんとこれまでの日常生活を続けられるって程度の怪我だ」

「マジシャンじゃなければ、か」

 ゾロが言った。

「そうだ。マジシャンじゃなければ。でも、その人はあきらめなかった。熱心にリハビリに励む様子は見てるほうが辛いくらいだったってセジロさんは言って た。でも、がんばった甲斐があってほんの少しずつだけど手は滑らかさを取り戻してた。時間はかかるだろうけどこれならきっとってセジロさんは思ってたん だ」

 それならどうして。
 固く絞ったハンカチで最後にサンジの足を拭き、 アキはサンジを見た。

「それがさ、突然・・・・その人はいなくなったんだ。誰にも、一緒に暮らしていた恋人にも何も言わないで消えてしまった」

 その恋人が。

「あの野郎か」

 サンジは頷いた。

「俺さ、セジロさんからその話を聞いたときに、その人はどこでどうしてるのかなってずっと気になって考えてた。何年も前のことだったけど、今日、なんだか ひとりずつ役者が揃ってくみたいでさ、すぐにわかったよ。今日は七夕だしなぁ。偶然過ぎてクソおかしいだろ。俺は何ヶ月も前からその人に会ってたんだよ なぁ」

 立ち上がったゾロは洗面器を持って奥に姿を消した。

「サンジ君、なにか薬と貼るもの、ある?」

 サンジは立ち上がった アキの右手をとらえた。それから自分もゆっくり立ち上がり、両手で アキの手を包み込んだ。

「ありがとう、 アキちゃん。薬は部屋にあるから大丈夫。俺さ、ついでに着替えてくるよ。ごめんな、せっかくの浴衣。この次の2人の浴衣デートまで待っ てて」

 サンジはきっと・・・・。 アキは静かに前に出てサンジの胸に額をつけると両腕をサンジの身体に回した。
 サンジは アキの頭に頬を触れ、目を閉じた。

「・・・俺の方が背も年もでかいのに、なんだか子どもみてェだ」

「うん」

 サンジの頬が離れるのと一緒に アキは腕をほどいた。

「俺たちは帰ってるからな」

 少し離れて立っていたゾロが言った。

「ああ。気をつけてな」

 サンジは片手を上げて自分の部屋に入って行った。
 サンジの姿を見送っていた アキの片方の手首をゾロがつかんだ。 アキが驚いて振り向くとゾロは足早に歩きはじめた。
 ゾロの手は温かかった。

 階下は後片付けが始まっているらしく、騒然としていた。
 2人はレストランの中には戻らずに裏口から外に出た。

「あ・・・」

 星空が見えた。 アキが足を止めるとゾロは手を離した。

「見えるかな、ベガとアルタイル」

 空を見上げる アキに、ゾロは笑った。

「お前は見かけどおりなのかそうじゃないのか、ほんと、わかんねぇ奴だな」

「うん?」

  アキは車に向かって歩いていくゾロを追った。

「わたしの見かけってどういう風?」

 ゾロは答えずに車に乗ってしまった。そして中から アキの側のドアを開けてくれた。

「考えてもしかたがない時ってのを意外とちゃんとわかってるなってことだ」

「でもね・・・」

  アキはシートに深くもたれた。

「わかってても考えちゃうのって実は止まらない。平気なふりはできるけど、それもやりすぎると虚しいね」

「お前の場合はな」

 じゃあ、ゾロの場合は・・・・?
  アキは短く答えて車をスタートさせたゾロの横顔を見た。

「ゾロ」

「・・・しばらく質問はするなよ」

  アキは笑った。

「じゃあ、お願いにする。あのね、ヴァイオリン、聴かせて?」

 ゾロは短く唸り、ため息をついた。

「お前、やっぱりたちが悪いぞ」

 意味がわからなくて首を傾げた アキを乗せたまま車は一気に加速した。



 バラティエの店内は明かりがほとんど落とされて、残っているのは淡い間接照明と一つのテーブルの上の明かりだけになっていた。奥の厨房にはまだ重なる音 と人の気配があったが、店にいるのはテーブル向かうマリエ1人だった。
 マリエの顔には複雑な色があった。俯き加減のその姿勢は普段は決して人前では見せない。瞳には行き先が見えない惑いがあった。

「マリエさん」

 後ろから不意に投げかけられた温かな腕はマリエをやわらかく包み込み、頭と肩はしっかりした胸に受け止められた。
 マリエはひどく驚いたが、なぜかふりほどく気持ちにはならなかった。

「よかった。1発殴られるのは覚悟してたんだ。これはさ、ちょっとしたお裾分け。俺がもらったあったかいもののね」

 いつの間にか覚えていた煙草の香りを認め、マリエは苦笑した。
 サンジはマリエの身体を離して向かい合った席に座った。

「着替えたのね」

 マリエには見慣れた姿のサンジだった。青い色のシャツに黒いベスト、黒のズボン。金色の髪にまっすぐ彼女を見る青い瞳。

「勿体無かったけど、俺の足、下駄に負けちまってさ。いつも通りに戻っちまった」

「鼻緒が擦れたのね?」

 マリエは驚いた。サンジの動きは見慣れた軽やかさでそんな気配はひとつも感じられなかった。

 サンジは灰皿の上で煙草をひねった。

「マリエさん、俺さ、男だからやっぱり男としてマリエさんを欲しいって気持ちもいっぱいあるんだ」

 唐突なサンジの言葉にマリエが顔を上げると、そこにはサンジの顔があった。いつもと同じ、けれどどこか、何かが違った感じのサンジの瞳。

「でもそれよりも、俺はマリエさんのこと、いっぱい見せて欲しいんだ。笑ってるとこ、泣いてるとこ、全部見たい。怒ってるとこはちょっと怖いけど、それも 全部」

 真っ直ぐなサンジの言葉はマリエに眩しさを感じさせた。

(やっぱりあなたとわたしは違う・・・・・)

 マリエが口を開きかけたとき、サンジが笑顔になった。

「でもさ、それはあくまで、マリエさんが俺に見せたいと思ってる全部でいいんだ」

「え・・・・」

「見せたくないところは見せないでいいんだ。俺は誰かが誰かのことを全部わかってわかりあえるなんていうのは信じちゃいない。人間はそんなにわかりやすい もんじゃない。で、俺もマリエさんにいっぱい見て欲しいんだ。俺がマリエさんにはここまで見て欲しいって思うところを全部。かっこわるかったり汚い部分も 混ざっちまうと思うけど、それでもマリエさんが見てくれたら、俺、ずっと結構いい奴でいれる自信があるんだ」

 サンジはタカヤのことを訊かないのだろうか。これまでのこと、今日2人が話したことを。
 サンジは・・・・

「俺にとっては惚れるっていうのがそういうことだってマリエさんに会ってわかった。お互いにきれいなとこだけ見て楽しくてっていうのが一番だと思ってたん だけど、そうじゃなかった。どこまで見たくて見せたいのか。俺は今、そういう風にゾクゾクしてる。マリエさんがすごく好きだ」

(この人は・・・どうしてこんなに深いんだろう。どうしてこんなに優しい・・・・)

 マリエはその時、一瞬で自分の気持ちをはっきりと見えた気がした。そして、それを言わなければならないと、聞いて欲しいと思う自分に気がついた。

「サンジさん。わたしはサンジさんが思うほど大人の女じゃないの」

 サンジはニッコリと笑った。

「ああ、マリエさんはきっと アキちゃんと似たところがあるんだなって思ったよ。見ただけだと逆のタイプなんだけど、傷ついた部分を守るために綺麗な殻をかぶって るってところが似てる。最近思ったことなんだけどさ」

 マリエはしばらく黙ってサンジを見つめていた。自分のほうがサンジのことをしっかり見ていると、わかっていると思ってきた気持ちが壊されてしまったと 思った。もしかしたらサンジのほうが隠すのが上手いと言うことなのかと思った。

「そして、わたしは自分が年上だと言うのがとても気になるの。おかしいでしょう?」

「う〜ん、俺がゾロの奴より身体が細いとか気になるのと同じかな?・・・・あ、でも、それってさ、俺にちょっと望みがあるってことだよね。気にしてくれて るってことはさ」

 マリエは困惑した。サンジの反応は想像するのとまったく違い、こうなると、もう・・・

 マリエの唇に微笑が浮かんだ。

「強いのね、サンジさん。驚いたわ」

 サンジも微笑んだ。

「俺だってタカヤって人のことはすごく気になってるさ。でも・・・今は前とは違うんだろ?」

 瞳だけはとても正直だ、とサンジの強い視線を受けたマリエは思った。その視線を嬉しいと感じると言うことは、やはり自分はいつの間にか抜け出していたの だと。

「終わったの。さっき、ようやくね。お互いにきっと楽になったと思うわ」

 マリエの笑顔は美しかった。

「だからね、わたしはあなたにどこか惹かれていることはわかっても、今はまだ、恋愛とか惚れるとか考えたくないの。そういうことは、考えるんじゃなくて自 然と湧き上がってきて欲しい気持ちだし」

 サンジはマリエの言葉を噛み締めるようにゆっくりと頷いた。

「じゃあ、俺は、今まで通り、マリエさんに惚れた男として店に行くよ」

 マリエも頷いた。

「ありがとう、急かさないでくれて。・・・おかしいわね、こんな感じの話をすることになるなんて思ってなかった。昔の話をすると思ってたわ」

「マリエさんが俺に聞かせたいって思うようになったらね」

 サンジは立ち上がった。
 ゆっくりと歩くサンジの姿をマリエは黙って見上げた。

「もう1度だけ抱きしめていいかい・・・・?俺、まだ・・・」

 立ち上がるマリエの瞳から溢れるものがサンジの言葉を止めた。

(俺のための涙なのかな。それとも自惚れてんのかな、俺)

 サンジはそっと手を伸ばしてマリエの身体を引き寄せた。
 マリエはサンジの腕の中で目を閉じた。
 ひとつになった影はしばらくの間離れなかった。

2005.7.7

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