サンジは煙草を咥えた。
気がつくと窓の外の闇がだいぶ薄くなっていた。
それでも、店の中の灯りを全部消すと、サンジの口元の赤い火が浮き上がった。
「まだいたのか・・・サンジ」
背後から響いたゼフの声に振り向いたサンジは、1回口を開きかけてやめた。ゼフが最初、多分自分のことを彼としては人生の汚点に感じる懐かしい呼び名で 呼ぼうとしたこと。それを咎めるべきか笑い飛ばすべきか、気持ちが決まらなかった。
ゼフの顔は薄暗くてよく見えなかった。
ゼフにも窓から来るかすかな明るさを背負ったサンジの顔は影にしか見えていないだろう。
「お前、あの人を送っていかなかったのか」
サンジはゆっくり煙を吐いた。
「ちゃんと車を呼んで乗り込むまで見届けたさ。今はマリエさんはそういうのがいいんだ。きっと俺も」
「・・・そうか」
間があいた。
「昼の仕込まであと何時間もない。部屋で寝るか?」
サンジの唇に笑みが浮かんだ。
「いや・・・。やっぱり俺、1度帰るよ」
「待ってるのか、あの2人が」
「そういうわけじゃねェけど。でもそうした方がいい気がするんだ」
「そうか」
戸口から半歩足を踏み出して、サンジは止まった。
「いけねェ。浴衣、忘れちまった」
ゼフは小さく首を傾げた。
「置いといたら面倒だがクリーニングに出してやる。作業着も出さなきゃならねぇからついでだ」
サンジは首を横に振った。
「いや、いいんだ。あれはちょっと大事なもんだから」
「そうか」
ゼフとサンジの身体がすれ違ったその時、2人の視線が斜めに出会った。
「帽子がねェと小せェな」
「お前には言われたくねぇもんだな、チビナス」
「だから、もうぜってェその呼び方すんなって言っただろ、随分前に」
背中を向け合った2人の顔には同じような表情があった。
ゾロは床に座り、背をソファの端に預け、手に持つヴァイオリンの弦を1本指で弾いた。ちょうど頭の後ろから聞こえてくる寝息を聞くとはなしに聞きなが ら。
彼がヴァイオリンを弾く間ずっと何とも言えない表情で聞き惚れていた
アキは、ゾロが心配していた通り、夜中を回った頃にストンと眠りに落ちてしまった。緊張し、心配し、サンジの傷を癒し。その間ずっと張 り詰めていたものがヴァイオリンの音色で緩んだのだろう。
ベッドから剥ぎ取ってきた薄い毛布をかけてやったあと、自分だけ寝室に引っ込む気にはならなくてこうしてぼんやりと時間を過ごしているゾロだった。
(無防備過ぎるぞ、ったく)
アキも、そして多分ゾロ自身も。
もしも
アキが眠らないで起きていて夜中を過ぎたことに気がついて、慌てて恥ずかしそうに自分の部屋に戻ろうとしていたら。もしかしたら自分は
アキを引き止めていたかもしれないとゾロは思った。理由はわからないし、どうでもいい。サンジのことは確かに気になっていたがそれだけ でもない。
アキがこうして眠ってしまって、ホッとしている部分が自分の心のどこかにないか。
ゾロはまた、弦を弾いた。
ベルが鳴った。
ドアを開けるとサンジが立っていた。とてもすっきりした顔をしているようにゾロには見えた。
「よぉ。・・・
アキちゃんは?いるのか?」
珍しくサンジは真っ直ぐゾロの部屋に来たようだ。時間を考えてゾロは納得した。この時間にサンジが女の部屋を突然訪れるはずはない。相手が
アキであっても。
「寝ちまってるけどな」
「そうか」
サンジは笑った。そしてゾロの後ろにヒョコヒョコとついて部屋に入った。
「足、痛むのか」
「まぁな。
アキちゃんには言うなよ。バレちまってるだろうけどよ」
サンジは靴を脱いで壁際に並べた。それから静かにソファに近づいて眠っている
アキを見下ろした。
「俺にとっちゃあ、天使だな。絶対背中に綺麗な羽がある」
サンジはゾロが両手に持ってきたグラスの片方を受け取り、床に腰を下ろした。
「多分さ、
アキちゃん、マリエさんより手ごわいかもな」
ゾロに向けたともひとり言とも受け取れるサンジの呟きに、ゾロは答えなかった。
「うまくいったか、とか訊かねェのか?薄情な奴だな」
「俺より心配してた奴が眠っちまってるからな。朝になったら訊いてやる」
「だな。俺もお前より
アキちゃんを安心させてェ」
ということは、とりあえずサンジはマリエに自分の胸の中を言うことができたのだろう。ゾロはグラスを挙げた。サンジは笑みと一緒に返した。それから、真 顔になってゾロを見た。
「お前さ、
アキちゃんを抱きしめたいとか思わなかったか?・・・・
アキちゃんが寝ちまいそうになった時」
ゾロはしばらくの間黙ってサンジの顔を見た。
今まで通り、澄ました顔で通すつもりなのかもしれないとサンジは思った。
その時、ゾロは視線をサンジの顔から外した。
「思わなかった、全くな」
「え・・・。ほんのちょっとも、ちらっともか?1秒も?」
軽く身を乗り出すサンジの姿にゾロは苦笑した。
「全くって言っただろ。・・・こいつを怖がらせたくねぇからな」
そう言ったゾロの顔に笑みはなかった。ただ、真面目な口元と
アキをみる真っ直ぐな瞳があった。
「お前・・・」
サンジは一瞬言葉が浮かばなかった。ゾロの言葉に含まれている意味を噛み締めた。
「・・・どう見てもレディを泣かせても平気そうな面構えとごつい身体してるくせによ」
サンジが無理やり叩いた軽口にゾロは反応しなかった。
空にしたグラスを床に置いて、ゾロは呟いた。
「俺は自分の中にあるかもしれねぇもんを、お前みたいに今はっきりさせようとか言葉にしようとか思わねぇ。多分そういう時期じゃねぇんだ」
「そりゃあ、無理にそんなことする必要もねェしな」
サンジは頷いた。
アキとゾロがこれまで通りで満足ならそれでよかった。安堵。サンジの心を半分満たしたのはこれだった。
「俺さ、あと4時間くらい眠ったらまた店に戻らなきゃらなねェんだ。ベッド貸せよ。あ、目覚ましもな」
「自分の部屋に戻ればいいだろうが。人のベッドを盗るな」
サンジの口角が上がった。
「前にも言っただろ。お前を
アキちゃんとこんな状況で2人きりにするなんて、俺にはできねェ。それに、どうせお前、ベッドで寝る気なんてねェんだろ?しっかり
アキちゃんを守っとけ」
ゾロは頭を掻いた。
「言ってることが矛盾のカタマリじゃねぇか」
「るせェよ。あ、ちょっとシャワーも借りるな」
ヒョコヒョコとおかしな足取りで奥に歩いていくサンジの後姿を見送ると、ゾロは場所を移って再びソファによりかかった。
アキの柔らかな寝息と、寝返りを打つ身体の動きが伝わってきた。
(少し、眠くなってきたかな)
ゾロの口からあくびが漏れた。
髪を拭きながらシャワーから上がってきたサンジが見た光景は。
(クソ無邪気な寝顔しやがって)
サンジは床に転がっていたヴァイオリンと弓を拾ってカウンターの上に載せた。
(
アキちゃん、笑ってくれるかな)
サンジが起きたときに
アキが目を覚ましていたら、とにかく急いで安心させよう。サンジはソファから半分落ちかけていた毛布を掛け直した。
(朝メシの材料、持ってくればよかったなぁ)
寝室に歩きながら、サンジはなんとなく気が引かれて後ろを振り返った。
サンジがマリエの存在を2人に知らせたくなった理由。目に映る光景はその理由そのものに見えた。
(おやすみなさいっと)
サンジは腕を大きく伸ばしてあくびした。