「・・・あいつは俺を呼んだのか」
腕の中の温かさを包むように抱きながら、ゾロは呟いた。その視線の先にはベッドの上に広がった紙の海があり、その中の1枚に書かれた文字があった。
『ずっとゾロに会いたかった---そうでしょう?』
目に飛び込んできたその言葉が与えてくれた答え。ゾロはその紙に手を伸ばし、掬い取った。
サンジの存在を理由に言わなかったゾロの言葉。同じように、もしもあそこにサンジがいなかったら口にされたかもしれないカズヤの言葉。受け取り損ねた言 葉と渡し損ねた言葉がちゃんと2人の間に行き交っていたら、事情はまた変わっていたのかもしれない。
顔を上げた
アキの目尻から頬に残る涙の跡をゾロは両手で触れながら消そうとした。あってはいけないもの・・・そんな気がしていた。恥ずかしそうに 顔を伏せようとする
アキの反応が嬉しかった。
「確かにあり得ねぇ状況だな、こいつは」
言った途端に顔から首筋までを赤く染めた
アキは慌てた様に身体を引いた。
いつもの
アキだ。何も変わらず、何ひとつ壊されたものはない。そう確信したゾロは思わず再び伸ばした手に苦笑しながら指先を一瞬
アキの頬に触れた。
「待ってろ」
立ち上がるゾロを見上げる
アキの顔に何かがあった。それは今はただ胸の中に収めておけば良いものに思えた。
部屋を出てすぐの廊下にカズヤの姿があった。顔を真っ直ぐゾロに向け、唇に今にも消えそうな微笑を浮かべていた。子どものころはもっと顔全体で笑ってい た・・・その記憶が蘇りゾロは息を吐いた。
「俺はずっとお前に言わなくちゃいけねぇことがあった」
ゾロの言葉にカズヤは不思議そうな顔をした。それからゾロが出てきた部屋のドアを視線で示した。
「あの人のことを言わないの?・・・殴られるかと思っていたのに」
「順序から言えばこっちが先だ。俺はあの時お前を守りきれなくてその傷を負わせた。あの後、結局1度もお前に会えなくて詫びることができなかった。だか ら・・・・すまなかったな」
瞳を大きく見開いたカズヤは慌てて口を開いた。
「でも、それは・・・・・」
ゾロの瞳はその続きを言わせず、強い光でカズヤの瞳を捕らえた。
「最後まで言わせろ。あの時、俺はお前を守ろうとしたがギリギリのあの瞬間に無理だと悟った。それをお前に詫びると同時に心の中で俺はお前を責めた・・・ なぜ動かない、なぜ自分で逃げない、なぜ自分を守らない・・・ってな。お前は最後の最後まで俺を信じただけだったのに、それを俺は責めた。間に合わない自 分の弱さと一緒にお前を責め続けた・・・後になってそのことが逆に俺を責めはじめたとき、お前はもういなかった。だからカズヤ、俺は・・・そのことも一緒 にお前に詫びたかった」
言葉を切ったゾロは彼よりも背が低いカズヤの胸元の辺りまで頭を下げた。
「待ってよ、ゾロ。僕は・・・ああ、もう・・・」
ゆっくり上がったゾロの顔の前に複雑な表情で笑うカズヤがいた。
「僕よりずっとひどい怪我をした君を僕は置いて行ったんだよ。君が誤解されて見当違いの非難を受けてる間、僕は何もしないで親とチハヤに守ってもらいなが ら逃げたんだ。僕がいなかったら君はあんな風に呼び出されたり襲われたりしなかった。僕はずっと知ってたのに・・・・」
カズヤは昂ぶる感情を抑えるように唇を噛んだ。
「それは別にお前のせいじゃねぇだろ。連中が勝手に恨んで勝手に因縁つけてきた、それだけのことだ。打たれ慣れてる俺とそうじゃないお前、理性を飛ばして でも守ってくれようとする人間がいたお前といなかった俺。それだけの違いだ」
その違いをそのまま受け入れることは当時のゾロには難しい部分があった。あの時にすぐ自分の感情をカズヤにぶつけることができなかったのはむしろ幸い だったのだと、今ゾロは思った。ここまで時間が空いてしまったのは不運だったが、これも必然だったのかもしれないと。
「僕の方がずっと君に謝りたかったのに・・・それを認めたくなくてずっとずっと・・・ひどいや、ゾロ、僕より先に・・・・」
項垂れていくカズヤの姿をゾロはしばらく黙って見ていた。彼と同じ年齢のはずのその姿に記憶に残る少年の姿が重なっていた。その口調も、声までもが過去 に戻ってしまったようだ。マリエの店で見た物静かで落ち着いた姿の方が本物ではなかったのかもしれない。
「なら、謝ってくれ」
カズヤは驚いたように顔を上げた。それからゾロの真摯な視線をおずおずと受け止めた。
「謝って昔のことから楽になれ。今回の話はそれからだ」
カズヤの目から涙が落ちた。
「・・・嫉妬してたんだ。君は僕が欲しいものを何でも持ってたから。・・・最初は本当に君が好きだったのに・・・チハヤがとっても眩しそうに君を見るよう になったから・・・」
チハヤという名をゾロは花の香りを思い出しながら聞いた。あの日、ミホークの家で会った女の顔にはどこか見覚えがあるような気がした。女は「チハヤ」と 名乗ったが、ゾロの記憶にその名前はなかった。衝動的に思える動きでゾロの懐に飛び込んできた女を押し戻そうとしたゾロの動きを止めたのはカズヤの名前 だった。カズヤの姉だと言われて合点がいったゾロの唇に触れた深い紅に彩られた唇。その感触は覚えていない。
「俺は・・・ずっと知らなかった」
呟くように言ったゾロの前でカズヤは初めて心から微笑んだ。
「僕はずっと苛々していたのにね。・・・いいんだ、ゾロ。気がつかないそれが君なんだから」
やっと開放されたのだろう。カズヤを見て思いながらゾロはそれが自分のことでもあると気がついた。思いがけなくカズヤと再会した時から知らぬ間に重く なっていた気持ちが今はない。
「お前の姉さんは死んだのか」
死んだ姉のメタモルフォーゼを依頼されたとエースが言っていた。
「うん・・・最後はとても痩せてしまっていたよ。元気で綺麗だったころに戻りたがってた。・・・でもあの時だってチハヤはとても綺麗だったよ」
「そうか」
ゾロはその時初めてカズヤの顔にその姉の面影を見た。
『ゾロ、あの、大丈夫だから・・・・・』
シーツごと抱き上げられて手足を動かす
アキの声がはっきり聞こえた気がしてゾロは笑った。
「やめとけ。これが落ちたら丸裸になっちまうぞ」
密かに速まっていた自分の心臓を棚に上げてゾロは悠々とした足取りでバスルームに向かった。浴槽の縁に腰掛けさせるようにそっと
アキの身体を下ろして扉を閉めて引き返す。戸口に立って待っていたカズヤはホッとした様な顔で部屋に入ってきた。
「あの人にはとても酷いことをした・・・・・僕は警察にでもどこへでも行くよ」
ゾロはベッドに腰を下ろした。
「あいつはそんなこと考えちゃいねぇだろう」
「・・・君は?」
カズヤはベッドの反対側に回り込んでゆっくりと広がっている紙を集めはじめた。
「君は怒ってるだろう?ゾロ」
「お前に腹は立ててるが、自分にも腹が立つ。・・・
アキがしたいようにする。あいつが良ければそれでいいし、あいつが忘れたかったら忘れさせる」
「・・・あの人が僕を殴りたがったら?」
「あいつはそんな風に思わねぇ。・・・お前とあいつはずいぶん沢山、話をしたようだな」
「ああ」
カズヤは身体を落とすようにベッドに座り、紙の束を膝の上で揃えた。
「あの人の『変身』があんなに完全じゃなかったら・・・僕はもっと早く自分の異常さに気がついてたかもしれない。でもあの人は確かに一番綺麗だったころの チハヤだった。そのものだった。これなら絶対に夢がかなう・・・そう思ってしまった。でも・・・僕は君の名前を聞いた」
カズヤは目を落とし、ゾロの手は拳を握った。
「そんなはずないと思った。あの人はチハヤじゃないから君のことを知っているはずがない。だけど・・・・。僕はどうしても君に会って確かめるしかなかっ た。君の名前を聞いたときからもうきっと夢なんてなくなってたのかもしれない。でもとにかく君が君だってことをこの目で見て・・・・それからあの人がチハ ヤじゃないってことを確かめなきゃいけないと思った。だから・・・・」
カズヤの顔が向いたのをわかってもゾロはそのまま視線を動かさなかった。
「最初はとても怯えた様子で僕はひどく優越感を感じていたんだ。チハヤより弱くて、細くて何もかも劣ってる・・・そう思ったよ。なのにどうして君の事を 知っていてそばにいるのを許されてるのかわからなかった。君はチハヤの気持ちには全然無関心だったから。不思議だったよ、すごくね」
「お前・・・」
ゾロが険しくなりかかった顔を向けるとカズヤは淡く微笑んだ。
「・・・そうやってあの人の事を守りたいと思うだろ?・・・ゾロ、僕にはずっとチハヤだけだった。もう20年以上だよ。いつだってチハヤが最高で、他の人 もそうだと思ってた・・・いや、そうであってほしかったんだ、多分。この年月の重さは自分で気がついて消せるものじゃなかった。僕にはごく当たり前のこと になってたから。だから、あの人に価値なんてないと・・・ひどい言い方だけど、ほんとにそう思ってたんだ。でも・・・」
揃えた紙の束の上を静かに撫ぜるようにしながらカズヤはまた微笑んだ。その笑みは穏やかだった。
「あの人は本当に不思議な人だね。どうしてそうなったか、もうよく覚えていないんだけど、僕はいつの間にか君の事をあの人に話していたよ。沢山。あの人は 一生懸命聞いてくれた。怖がらせて涙を流させてしまった僕の話なのにね。僕は時々不安定な気持ちをぶつけちゃったりした。それでもなぜかあの人はもう僕の 事を怖がっていないみたいだった。ちゃんと聞いて考えて返事をくれた。・・・とうとう僕はチハヤの事も全部話した。あの人にチハヤになって欲しかったこと も言ったよ。・・・どうしてだろう。あの人はもうそのことを全部わかってたみたいだった・・・・」
ゾロの表情からこわばっていたものが抜けた。
「・・・それでお前の中の重たいものは全部なくなったのか」
「もっと自然にチハヤを大切に思っていていいんだってわかったよ。それから・・・もしも段々記憶が薄くなっていったとしても・・・それは悪い事じゃないん だってことも。僕が臆病になってるだけだとわかったから」
「そうか」
2人はそのまましばらく無言で座っていた。
ふと気がついたようにカズヤはゾロを見た。
「あの人が僕に書いてくれた事、読むかい?・・・君をとても大切に思ってるようだよ。ああ、でも・・・これはやっぱりいけないことかな」
ゾロは一瞬真面目になった顔をすぐに消した。
「それはお前が耳で1回だけ聞くはずだったものだ。あいつが戻ってくるまでにどこかへやっておけ」
「そうだね。・・・でもゾロ、僕はまだこれを捨てられない。しばらく読み返してあの人の声を想像するよ。僕を普通に戻してくれた声を」
ゾロはゆっくり1度だけ頷いた。
記憶の中から自分を呼ぶ
アキの声を思い出しながら。