青い薔薇 2

イラスト/ 「一緒に薔薇が咲くのを見ていただきたいんです」

 男はそう言って微笑んだ。
 そのつぼみは、まだ殻のように被さる緑色のがくが割れて花びらが膨らみはじめたばかりに見えた。ほとんど黒のように見える濃い花びらの色。これが咲くに はあと何日かかるだろう。
 あと2時間弱で時間は切れる。
 開く花を一緒に見るのが目的ならば改めて契約するか、或いは今日は1時間ということにして残りの時間を数日後に設定する方が良いかもしれない。

 男がじっと視線を注いでいる。
 何を待っているのだろう。これから花が咲きはじめるとでもいうのだろうか・・・手品のように。
 口を開こうとしたその時、しびれるような感覚に気がついた。唇と舌、そして両手の指先。

「薔薇のお茶はお気に召しましたか?」

 本物の深紅の花びらを1枚浮かべて差し出された紅茶。半分ほど飲んでテーブルに置いておいたもの。
 男が笑みを深くした。

(あのお茶に・・・)

 薬が入っていたと言うことなのだろう。無言のままポーチに手を伸ばすと男は素早い動きで身体を割りいれて伸ばした腕をつかんだ。

「時間はまだまだあります、姉さん」

 男の『姉』。今自分がなりきっている対象。視界が回転しながら色を失いはじめたのがわかった。

 後ろに倒れていく身体を男は優しいといっていい優雅さで受け止めた。

「・・・ゾ・・ロ・・・」

 少しだけ開いたままの唇からこぼれた音に、男は動きを止めた。首を傾げて目を閉じた美しい顔を見下ろす。男の腕の中の女はまさに記憶に刻み込まれたまま の姿だったが、声は違っていた。彼は姉の『声』を持っていない。耳の奥で繰り返し語りかけてくる声を注文し伝える術がなかった。それでいいと思っていた。 あの懐かしい姿で彼の横にいてくれさえすれば。
 けれど、その見知らぬ声が呼んだ名前は。
 彼の神経が妙に研ぎすませれすぎて聞き間違ったものか、それとも恐ろしいほどの偶然か。
 確かめなければならない。
 男は女の持ってきたポーチを開けて中身を出した。しかし、目的をかなえてくれそうなものは見当たらなかった。
 男は寝かそうとしていた女の身体を起こした。女の頬を数回軽く叩くとわずかに反応があった。

「ゾロと言うのはロロノア・ゾロのことですか?」

 女の耳に口を寄せる男の顔にはこれまでとは異質な表情があった。

「あなたは・・・今、ロロノア・ゾロに会いたいですか?」

 男が囁くと女は・・・ アキは小さくひとつ頷いた。



 瞼を持ち上げるには若干の意志の力が必要だった。
 身体を起こすとまだ全身の神経が目覚めきってはいない感覚があった。

 部屋の中の様子はごく普通に見えた。いや、 アキが生活している部屋よりも遥かに部屋らしい部屋と言えた。
 寝かされているベッドは白い寝具で覆われ、ひとり掛けのソファと円形のテーブルがある。奥にはバスルームのものと思われる曇りガラスのドアが見える。

 あの男はどうして。

 目を閉じる直前に見た男の顔に浮かんでいた表情には二つの印象があった。
 楽しげな笑みを浮かべた顔。
 何か湧き上がるものを抑えこもうとしている歪んだ顔。
 そのどちらもが等しく畏怖すべきものなのだろうか。


 ドアが開いた。
  アキの視線を受け止めた男は薄く笑った。それでもその顔はごく当り前にいる普通の人間のように見えた。

「あなたが・・・ゾロの名前さえ口にしなかったら、僕は・・・・」

 ゾロ。
  アキの身体が一瞬震えた。いつ、その名前を言ったのか、記憶はなかった。
 無意識に呼んだのだろうか。失いかけた意識の中で、或いは夢の中で。何かとても不思議な夢を見ていたような記憶はあった。

 男が歩いてくるのを アキは黙って見ているしかなかった。身体がよく動かないこともあったが、判断するだけの情報がなかった。
 男はベッドまであと1歩のところで足を止め、 アキの顔を見下ろした。ゆっくりと伸びて来た手が額に触れた。その指先は冷たかった。

「姉さんとずっと一緒に・・・・・・・」

 苦悶に満ちた顔を アキは見つめた。数年前にこの世を去った『姉』に対する執着を、 アキはこの時初めて感じた。男の瞳、震える指先、声、そして言葉。これまでも失くしてしまった人間関係を取り戻すことを願ってメタモル フォーゼを依頼してきた人間と何度か契約したことがあった。死、失恋、行方不明・・・原因は異なっていたが誰もが記憶に残る美しい時間をもう1度再現した いと願う、そのことは共通していた。
 けれど、この男は今、何か変化を見せている。

「だめだ。・・・僕は本当のあなたを見なくてはいけなくなった」

  アキの身体が硬直した。

「何を・・・・」

 口から漏れた言葉は男に対する問いかけというよりも反射的な防御だった。

「ゾロの近くにいる女の姿を」

 男のもう一方の手が伸びた。



 なぜ、身体が動かないのだろう。

 叫びたいのに声を出せない喉が焼けるように熱かった。

 何時間もかけて身にまとったひとりの女の姿が無理やり剥がされていく。

 動ける限界まで抵抗した。

 これは多分、性的に暴行を受けるよりも・・・・嫌だ、嫌でたまらない。

 怒りよりも恐怖があった。



「なぜ・・・・ゾロはあなたみたいな人を・・・」

 遠ざかる音の中で聞こえた男の声は、心底不思議そうにこう呟いていた。

2005.7.25

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