青い薔薇 4

イラスト/ シーツ1枚しか掛かっていないはずの身体がひどく重かった。
 内側に広がる虚脱感を抑えようと動く気持ちが他人事のように思える。剥き出しにされた全身とは反対にどこかへ潜伏しはじめていく心。

 指先で喉に触れた。いつの間にか声が出なくなっていた。連れて行かれたバスルームで揉みあううちに声帯が故障してしまったのだろう。

 男の顔に浮かんでいたのは嘲笑のように見えた。
 つややかな髪も官能的な唇も身体の豊かな曲線も、剥ぎ取ってしまえば一瞬で幻となる。降り注ぐ湯の下で溶け出した幻は男が希っていたもののはずで、その 下から現れた アキ自身の身体は男にとっては夢の残骸のようなものなのではないかと想像できた。
 では、なぜその残骸を引っ張り出した。
 なぜ希望を壊した。
 その根にあるものが、なぜゾロなのか。

『抱けると思ったのに・・・そんな気にもならない』

 ひとり言のように呟いた男は アキの顔を見て言葉を続けた。

『なぜ・・・・ゾロはあなたみたいな人を・・・』

 不思議そうに。
 戸惑いながら。
 目を逸らしたくなる表情とはあまりに釣り合わない丁寧な口調に鳥肌が立った。もはや残骸に過ぎない状態は心だけでなく身体さえも無力で、 アキは男の視線にさらされた自分をそのまま投げ出しておくしかなかった。先刻まで身にまといなりきっていた美しい女から引きずり出さ れ、比較されて疎まれて。心の中の均衡を保つ術を見失ってしまった気がした。

 気がつけば頬を落ちるものには温かさがあり、それが不思議でたまらない。
 声が出なくなったのはむしろ幸いだったかもしれないと思う。いらぬ伴奏をつけてしまったかもしれないから。

 頭の中に浮かび続けるひとつの名前だけが現実だった。

 ゾロ。

 繰り返すうちに一つの音になってしまったその響きは アキに目を閉じることを許さない。すべてをシャットアウトして忘却の向こうへ追いやってしまえば心は身体から離れて楽になる・・・その ことを アキは知っている。幼い彼女に残されたただ一つの防衛手段だったそれは大人の今でも有効かもしれない。そう思う心の中にその音が響く。

 ゾロ。
 サンジ。

 音は次の音を連れてきて自然に増える。
 増えてもその意味は変わらない。
 失いたくない、そして、無くしたくない。自分の中にある執着のようなもの。それがあるとなぜか目を閉じることができない。
 邪魔なのか。
 自分にはいらないものなのか。
 いっそ忘れてしまえばと思い目を閉じてみると、閉じる瞼を押し返すように熱いものが止まらなくなった。その熱は頬を伝って消えていくのに、肩から腕を過 ぎてぬくもりが身体の表面を流れはじめる。それはまるで身体のどこかにある心を目指しているようで。

  アキが静かに手を動かして胸の上にのせた時、ドアが開いた。
 男は湯気がたつカップをのせたトレーを持っていた。歩きながら男は アキの顔を見つめた。

「なぜあなたがあんな風に姉になれたのかわかりませんが、あと一度だけお願いすることになるでしょう。もう何日かしたら。あなたもその方が嬉しいでしょ う」

 トレーを差し出す男から アキは目を逸らした。

「もう薬は入れてないから心配いりません。あとで食事も持ってきます。着替えがなくて不自由でしょうけれど、姉になった後なら衣類はふんだんにあります。 だから、本当に心配はいらないんです」

 男はベッドに腰を下ろした。そして アキの顔に手を伸ばした。

「泣いていたんですか。あなたは本当にまだ少女のような人だ。大丈夫、姉はとても大人の女性ですからあなたを全部受け入れてくれるでしょう」

 男の指が アキの髪に触れて顔の輪郭をなぞった。
  アキは自分の身体が小さく震えるのを感じた。
 この手は アキのメタモルフォーゼを強引に解いた手だ。それ以上の何でもない。けれど自分の身体はこの手に恐怖を感じている。心底脅えている。

 けれど、怯えを感じるということは。
 心が起きているということだ。
 心が起きているのなら。

  アキは顔を動かしてゆっくりと男の顔を視界に入れた。
 2人の視線がぶつかると、男の口元の笑みが消えた。

「教えてください。ゾロはどういう男ですか。あなたはゾロの何なのですか」

 ゾロ。
 その名前を聞いた アキの耳にヴァイオリンの音色が聞こえた。ゾロの大きな手が触れたことがある頭が、肩が、腕が熱くなった。

(ああ、さっきのあれは・・・・)

 肩から全身に広がったぬくもりは以前ゾロに、そしてサンジに与えられたぬくもりの記憶だったのだと納得する。
  アキに、生身の アキ自身に与えられたぬくもり。
 そして心の底にある執着は今一度会いたいという気持ちに形を変える。

  アキは手で喉を押さえた。

「声が・・・出ないんですか?」

 ようやく思い当たったらしい男は立ち上がった。

「筆談するしかないようですね。でも、これはちょうどいい。あなたの声は姉の邪魔になるだけですから、ない方がかえっていいんです。理想的ですよ」

 穏やかな口調と静かな声。
  アキは男の顔を見つめた。どこにも見えない狂気の在り処を探るように。

2005.7.27

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