声がないのはちょうどいいと男は言う。そのまま頭の中で記憶の中にある声を蘇らせてあてはめることができるから、と。大人で女らしい声を。
ならば、と思う。自分に存在しているこの心や記憶、思いも男には邪魔なのではないか。
男が求める姉の姿を再現することはできる。けれど表情や仕草は
アキが予想して動いているに過ぎず、例え男が事細かに動作のひとつひとつまでを
アキに教えることができたとしても、それは演技に過ぎない。そして、男が心に刻み込んでいる姉の所作は男が記憶したその時点で彼の希望 や願望や・・・・そういう無意識なフィルターを通して見たものに過ぎないのだ。
失った者のメタモルフォーゼを求める人は、最初はその本人の完全な再現を望んで手を伸ばす。けれど、
アキのそれが完全であればあるほど自然とその目的が変わることがある。それまで心の中で止まっていた時が動き出し、記憶を掘り出して懐 かしみ、そこに付随していた悲しみを洗い落として綺麗にしてから新たに記憶にそっとしまう。生きていた頃の本人に代わることができる者はどこにもいない。 己の記憶さえも風化し変化し気がつかないうちに形を変えていく。それを知った者の表情は時に清々しくさえあり、
アキはそこに人の強さを見る。
この男が望んでいるのは姉が蘇ること。身体だけではなく中の魂までも完全に復活すること。
アキにすれば不可能とわかっているそれの実現を疑うことさえしていないような男の言動。それをずっと恐れていた
アキは今、目の前にいる男をはじめて見ている気がしていた。
アキの全裸の身体と男の間にはシーツ1枚しかなかったが、不思議と恐怖は沈みはじめていた。多分、今残っているのは精神的なものではな くてメタを剥がされた時の手の感触・・・物理的な恐怖だった。もしも男の指先が再び触れたら、きっと身体は震えて心は悲鳴をあげるだろう。けれど、もう心 が止まってしまうことはない。震えても、涙が落ちても
アキはずっと
アキのままでいるだろう。
ゾロ。
今は不自然なほど平常に見える男の心を動揺させた名前。そして
アキの心を引き戻した名前。
過去にこの男とゾロにどういう接点があり時があったのか、推測する材料はないに等しい。
『ゾロはどういう男ですか。あなたはゾロの何なのですか』
紙とペンを持つ
アキの手元をじっと見つめて待っている男の問いは
アキに答えられるものではなかった。
アキ自身にもわからない、無理に答えを出したいとは思わないものだった。
シーツが滑り落ちないように気をつけながらゆっくり身を起こす
アキを男の目が静かに追った。
アキは身体をずらして枕に背中を預け、男の顔を見た。
まっすぐに
アキを見る表情には懇願のようなものが見える。身だしなみの良さと穏やかな表情の中に見えるそれは・・・疑うことを否定する子どものよ うで。そして肌があわだつ何かがあった。
アキはゆっくりと息を吐いた。紙の隅でペン先を動かしてインクが出ることを確認する。
それから、書いた。
『ゾロはあなたの何?』
アキが書く一文字一文字を目で追っている男の表情が徐々にこわばった。
男の手が伸び、ペンごと
アキの手を強く掴んだ。
「あんた、地味になったな。前はもうちょっと・・・色具合が派手だった」
「ぬしはあの頃のスタイルのほうが年かさだったと言えよう。はからずも今は互いに随分似通っているが」
黒尽くめの2人は向き合って互いの姿を見ていた。その心に浮かぶ最後に見たそれぞれの姿はどのようなものだったろう。
サンジは車によりかかって煙草を咥えた。エースは面白がるように口角を上げた。
「あんた、やっぱりジュラキュール・ミホーク?」
一瞬、金色の瞳がエースの全身を捉え、そして無言のまま逸れた。沈黙は肯定と等しいと思えた。
ゾロの身体を満たしていく張りつめたような気とそれとは対照的なミホークを取り巻く気怠さ。なのに瞳の奥に浮かぶ色はどこか似ている。サンジの目に映る ゾロはどこか目新しく、ミホークの姿にはどこか見慣れたものがある気がした。
「ぬしはなぜここに来た?」
「訊きてぇことができた」
ミホークは眉をひそめた。彼の記憶の中にある若さに満ちたゾロの姿。その時でさえゾロは彼にものを問いかけたことはほとんどなかった。偶然からともに過 ごすことになった日々、ゾロは言葉よりも肌で、呼吸で自分が置かれた状況からミホークの個人的な流儀までを吸収した。だから、2人は互いの個人的なものを ほとんど知らない。
「ならば、早く尋ねよ。時間が惜しいであろう」
「ああ・・・そうだな」
答えたゾロは何かを求めるように辺りに目をやり、歩きはじめた。ミホークは黙ってその後を追い、さらにサンジとエースが2人について行った。
ゾロはそのまま小屋の裏手に回った。
ついていった2人は目の前に広がった思いがけない光景に、一瞬足を止めた。
「こりゃ・・・また・・・」
吹き寄せる風にのって届いた馨しく甘い香りに、サンジは息をさらわれた気がした。
「すげぇな」
エースが呟いた。
小屋の裏手はそのまま崖の端へと続き、その先は青い海の一色が広がっている。その青に飛び込む前に絢爛たる色の重なりがあった。朝の光の中、緑色の茎の 太さと葉の厚みも様々に、その間から、そしてその上に花開く幾本もの薔薇たち。奥に見える棘の強ささえも美しさを引き立てこそすれ醜悪なものではない。
「増えたな」
ゾロは腕組みをして薔薇に視線を注いでいた。まるで思わず伸ばしてしまいそうな手を自ら拘束するように。
「強い品種が、あれから育った」
ミホークの手が一輪の花を撫ぜた。強い香りが立ちのぼった。
「ゾロ。ぬしがわたしに訊きたいというのはこの花たちに関係があることか?」
「ああ。・・・俺がここにいた時、薔薇作りのことをあんたに訊きにきた人間がいた。来たのは女1人だったが・・・・俺はあの一家の居場所を知りたい」
偶然の再会・・・・というよりはゾロにとっては出会いに等しいあの時。目を見開いて彼を見つめた後、滑らかな声を震わせた・・・。
「お前が言うのは・・・あの娘のことか」
ミホークは花から手を離した。そして考えるようにゾロの顔を見た。
「娘?」
思わずサンジの口から声が漏れた。しかし、ゾロの視線を受けて続きは吸い込まれた。
「用があるのは家族の方か。相変わらずだな。しばし待て。あの娘が書き残したものがまだどこかにあろう」
ミホークは静かに身を翻して姿を消した。
サンジは煙草に火をつけた。
「カズヤって奴を探すんだろ?」
「・・・俺はあいつにはあの街を出てから今日まで会ったことはない。だから辿る術はねぇ。でも、あいつの姉に偶然ここで会ったことがある。それでここに来 た」
エースはゆっくりとゾロの隣りに歩いた。
「あんた、ジュラキュール・ミホークのところで暮らしてたのか?想像してた通り、変わった男だな」
ゾロは答えなかった。
サンジはメトロノームのことを思い出していた。もしもあれをゾロに渡したのがミホークなら、もしかしたらヴァイオリンをゾロに教えたのも彼なのではない か。底知れない感じの金色の瞳、美しい薔薇、そしてヴァイオリン。その中で暮らすゾロの姿を想像することは難しかった。
「何考えてんだ、アホコック」
いつもと同じゾロの声に、なぜかサンジは目を丸くしてしまった。
この場所の影響を受けている。そう思った。