男の手は熱かった。
アキは男に掴まれている手からはじまって身体全体が震えはじめたのを意識したが、その一方で男の手も震えていることに気がついていた。
「質問に対して質問を返すのはあまり良いマナーだとは思いませんが・・・・」
咎めるような男の瞳の中に他の感情が見える気がして、
アキは目を逸らさなかった。目を伏せたのは男の方だった。横から見るうつむいた男の顔の中で柔らかそうな前髪が垂れ、現れた白い額に傷 が浮き上がった。
男は答えないつもりだろうか。
アキは黙って待った。もう1度尋ねようとは思わなかった。2人は『ゾロ』という名前を挟んで向かい合っている。これは
アキはもちろん男にとっても予想できなかったことだろう。男は
アキをどうするつもりだったのか。少なくともあんなに乱暴に無理やり彼が望んだ『姉』の姿をその手で解いてしまうつもりではなかっただ ろう。
アキは驚いて心乱れて恐怖を感じたけれど、男の中にも何か似たようなものがある。それはもしかしたらこの状況を変える突破口になるかも しれない。
アキはゆっくりと瞬きしながら男を見続けた。
「・・・今はもう、朝なんです」
男は立ち上がると窓辺に歩き、
アキが意識を取り戻して以来ずっとひかれたままだったカーテンを開けた。
アキがいるベッドの上からは角度的に外の様子は見えなかったが、白っぽい光が流れ込んだ。
「きっと蕾がまた膨らみました。でも、まだわからない。薔薇の花色は開いてみるまで本当にわからないものです」
薔薇の花。『姉』と一緒に見たいと男は言っていた。
アキは直感的にペンを動かした。
『何色の花を見たいのですか?』
ゆっくりとベッドの傍らに戻ってきた男は
アキが書いた文字を見下ろした。それに続く沈黙がまた男が答えることを拒否したように思えたその時。男の唇が動いた。
「青ですよ。ずっと求めていた青い薔薇です」
アキは男の顔を見上げた。
a blue rose
不可能なもの、を示す響きがある言葉。
アキはこれまでに青い薔薇を咲かせることを夢見ている人たちの物語をいくつか読んだことがある。現実の花作りの世界でも、青い薔薇は 『今度こそ』『これこそ』とほんの時折話題になるが、実際は純粋な青とは違う色しか実現していないのではなかっただろうか。
「僕は・・・僕の家族はずっと青い薔薇を自分たちの手で作りだそうとしてきたんです。昨日あなたに見せたのは僕が3年かけて育てた苗・・・・蕾を持ってい たでしょう?あれは青薔薇であるはずです」
3年。
アキはまたペンの先を紙に当てたが、思い直して書くのを止めた。
・・・・『姉』がこの世を去ったのは何年前のことなのだろう。
不可能なものを可能にする。それは言わばひとつの奇跡。その奇跡を見届けて・・・男はその先に何を見ようというのだろう。・・・奇跡によって願いをかな えようと?彼が会いたいと希う人に会うことを・・・・いや、ともにありたいと思う人とずっと一緒にいることを?
青い薔薇が咲くとき、男の姉は一人の人間として完全に復活する。
男が願うのは本当のメタモルフォーゼ・・・
アキの身体を土台にして身も心も別の美しい女性が生まれる。それが男の願いなのだと
アキは確信した。すべては直感だった。けれどそれは己自身も再会があり得なくなった存在の復活を願った経験がある人間の直感だった。
『お姉さまも一緒に薔薇作りを?』
書いてから
アキは自分の手を見た。これではまるで世間話だと思った。でも手は自然に動いたのだ。
男の顔にいくつかの表情が入れ替わるように流れた。噛みしめられた唇。戸惑いの視線、そして真面目そうな顔。
男はベッドの端に腰を下ろした。
「青い薔薇を作るのは最初は両親の夢だったんです。姉と僕はそんな両親をずっと見てましたから、自然と交配やら肥料作り、土質管理、そういうのを自分なり にやるようになりましたね。運良く金銭的に苦労しないで済む家だったから・・・・でも、今思えば随分現実離れした家でしたよ」
穏やかな口調で語り続けながら男は
アキに微笑を見せた。そして、思わず
アキが身体を少しこわばらせると不思議そうな顔をした後、思い出したように小さく頷いた。
「姉はとても綺麗で優雅で・・・そう、薔薇の花のような女性でした。同じ家で育ったのに僕を置いて一人だけ先に大人になったような・・・何でも知っていた しみんなが姉に憧れてあの姿を見上げていた。でも、姉はいつも僕の傍にいてくれた。どこにも行かないって言ってた・・・僕のせいで・・・ゾロに・・・会う までは」
終わりの部分を吐き出すように言った男の声を
アキは黙って受け止めた。
ゾロの名前を聞いたとき、それはなぜかわかっていたことのような気がしていた。
3人のところに戻ったミホークは1枚の紙切れを手にしていた。
「何か情報があったら知らせてくれとあの娘が一方的に置いていったものだが・・・まだ残っていたのも偶然ではないのかもしれんな」
ミホークの視線はゾロの表情の奥を見通そうとしているように思え、サンジはその金色の瞳の力強さに惹かれるように無言で見つめていた。
ゾロは受け取った紙に目を走らせ、半分に折ると胸のポケットに入れた。
「守る者ができた時人は強くも弱くもなる・・・前にそう言ったことがあったな」
それに答えるようにゾロは視線をあげてミホークを見た。
「・・・あんた、気が早くなったな。年を食ったせいか。俺は今だって自分のことだけで十分だし、他のいろんなことに名前をつけようとは思わねぇ。見えてく るまでほっておけ・・・・そう言ったのはあんただろ?」
ゾロは金色の瞳を思い出していた。
今思えば随分生き急いでいた頃の自分に向けられたあの瞳。あの目に一瞬射すくめられた気がして腹が立った。血まみれの全身に向けられた視線と咲いていた 薔薇に向けられる視線には違いがなかった。それがまた無性に・・・・。
「どれほどの物事を見ても無垢で通してきたお前のことだ。そのまま進むがよかろう」
ミホークの瞳にもあのときのゾロの姿が浮かんでいただろうか。
およそ『無垢』とは正反対な印象を与えたはずの顔合わせを。
ミホークは左手をポケットに入れてから出し、軽く閉じているその手をゾロに向けて差し出した。
黙って差し出したゾロの手の平に落ちたのは鍵だった。
「・・・これは・・・。あんた、直したのか?」
ゾロは視線を鍵に落としたまま呟いた。
「ぬしが宿代のかわりに置いていったポンコツはちと工場の連中の手を焼かせたようだがな。直ってしまえばなかなかの姿。何度か使わせてもらった」
「いつものマント着て乗ってたんじゃねぇだろうな」
ゾロが苦笑するとミホークは澄ました顔で唇をゆがめた。
「あれで風をはらむのも気持ちの良いものだ。ぬしにあの良さがわからぬというならしかたない。適当に身支度するがいい」
先にたって歩きはじめたミホークの後をゾロが追い、またその後をサンジとエースが追った。
「おい、ゾロ。何かわかったんだよな?」
サンジがゾロの隣りに並んで顔を覗き込むと、ゾロはひとつ頷いた。
「住所がわかった。今もそこにあいつが・・誰かいるとは限らねぇがな」
ゾロはポケットから紙切れを取り出してエースに差し出した。
「ここに行け。その先はむこうに着いてから決める」
「おいおい、あんたは行かねぇのか?どうする気だ?」
「俺は先に行く」
「え・・先って・・・ゾロ!」
サンジが叫んだとき、3人はちょうど角を曲がって家の前に出た。
「・・・なるほどね」
エースの車の隣りに見慣れないものがあった。
太陽の光を受けて黒光りする重々しいボディ。豊かな胸部のようなタンクとくびれた腰のようなサドルの部分。そのバイクは確かに過去はゾロのものであった のだろうとサンジを納得させる雰囲気を持っていた。
「お前、こんな体力食いそうで物騒なもんに乗ってたのかよ」
サンジが言うとゾロはかすかにニヤリとしたように見えた。
それから無造作にバイクの上に揃えられていたジャンバーの袖に手を通し、黒いヘルメットを被り、グローブをはめた。
キーを回した瞬間、エンジンが吼える。
響きはじめた低音に耳を傾け、ゾロはバイクに跨った。
「行くのか」
ミホークは家の戸口から声をかけた。
ゾロはシールドに手をかけたがそのまま上げずにミホークを見た。
「今度こそもう会うことはねぇかもな」
「すべては進む時しだい。油断だけはするまい」
仇同士みたいな台詞だな、とサンジは思った。こうして素っ気無く別れる2人の男の間には過去にどんな時間があったのか。答えを知ることは多分永遠にない のだ。
「乗れよ。俺たちも行くぞ」
エースは最後にちらりとミホークのほうに視線を走らせてから車に乗った。
サンジも目を向けるとミホークは小さく頷いたように見えた。
地面についていたゾロの足が浮いた。
猛々しいエンジン音とともに黒い後姿が小さくなっていく。
サンジはするりと助手席に乗り込んでドアを閉めた。ふと見ると家の前にはすでに人の姿はなかった。