礼 奏

写真/一輪の白百合 こういう風にこういう場所で。
 弾くことを思ってみたことがない訳じゃない。
 聴く人間は誰もいなくていい。
 距離が離れたどこかの場所でまっすぐに前を見ているあいつに向けて。
 多分、自分が送りたいと思う気持ちを言葉よりもうまく出せる。
 それだけだ。
 でもよ。
 違ったのは唯一つ。
 考えたことがなかった、このネクタイの色は。



 ゾロの足は次第にゆっくりとした運びになりやがて靴音とともに止まった。古びてあちこちに傷跡が残る煉瓦の壁を見やる表情は静かだった。
 いつの間にここに来たのか、と自分で少々不思議に思う。ここは古い倉庫地帯。崩れる危険性が大きいために随分前から立ち入り禁止になっている場所だ。ゾ ロがここを知ったのは数年前の仕事がらみ。1人の男を追って偶然足を踏み入れた。ここにくるのは2度目。あの日から初めてだった。

 部屋ではだめだと思った。
 自分が眠り、食べ、身体を伸ばす場所では。
 滅多に目に触れることもない一番奥に掛けられたスーツを手に取った。合わせて揃えてある目に眩しいほどの白いシャツと光をすべて吸い込んでしまうスーツ とネクタイの黒。
 手にヴァイオリンを下げて外に出た。気持ちのままに歩いた。途中で好奇心を表した視線をいくつも浴びたが何も感じなかった。
 どのくらい歩いただろう。気がついたらここにいた。
 陽がかなり傾いて空も彼の周囲の空気も柔らかな色に染まっている。

(俺は・・・お前に・・・)

 胸の中で呟こうとしたゾロの頭が左右に揺れた。やはり言葉にするのは得意ではない。
 ゾロは顎の下にヴァイオリンを置き、そっと弓をあてた。最初の音を奏でるのと一緒に瞳を閉じた。はじめは記憶から掘り出した一節一節を辿っていたゾロの 指は次第に未知のゆっくりとした動きに変わっていく。
 哀調。
 奏でるゾロの顔は目を閉じたまま無表情にも見え、時々幽かに震える口元だけが彼の心の底に動くものの存在を示していた。



 弓とヴァイオリンを下ろして右手にまとめて持ち直したゾロは、左手の指先で喉元を緩めた。
 月はまだない。そこにあるはずの星は街の灯りに紛れて捉えることは出来ない。降るような星の記憶を映しながら空を見上げるゾロの唇に笑みが浮かんだ。

(今度はお前が歌いだしそうなヤツを弾いてやる)

 すっかりほどけたネクタイをポケットに滑り込ませ、ゾロはジャケットとシャツの袖を重ねたまま数回折り上げた。
 流れ出したリズムは軽やかに空気を刻みはじめる。
 ゾロの足はゆっくりと進みはじめた。リズムを大幅にはしょりながらも合わせて歩く姿に長い影法師が揺れる。

 ポツポツと並び立つ街灯は気まぐれに光と闇を作り、その混沌の中を陽気な音色と靴音が遠ざかって行った。

2005.5.17

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