猫は自由気儘な生き物だとよく言われる。気が向いたことしかしないとか、家族の中では自分が一番であると認識しているとか、いやそもそも順番付けなどに興 味を持つはずのない独立した存在だといえるかもしれない。
とすると。自分は一体ここで、今、何をしているのか。
恐らくそんな疑問を抱いていても不思議ではない猫が一匹、ただひっそりとそこにいた。
部屋と夜の暗さを仕切るカーテンの裏側に。
出るに出られず・・・・ともしも彼が人間だったなら口から言葉を零していたかだろうか。
唇を合わせることは互いに奪い合うことであり、それはつまり与え合うことでもある。ゾロはずっとそう思ってきた。相手を腕の中に抱いて唇を奪うことは快 楽に直結する道の初めであり、唇を許した相手は当然その先を期待しているのだ。ゾロはずっとそう思っていた。それが彼の独りよがりな思い込みでないことは 過去に唇を合わせたことがある相手たちの肌の温度とか瞳に見え隠れする煙った光によって証明されてきた。身体を繋いで奪い合いながら逸る気持ちを抑え女の 満ち足りた表情と声を得る・・・・それが抱くということだと思ってきたし恋人として女の期待を裏切らないことだと思ってきた・・・のだが。
そっと
アキの顔を両手で挟んだゾロは、自分の手が細かく震えているような錯覚を覚えた。じっとゾロの顔を見つめている
アキの瞳に揺れる光の意味をひとつひとつゆっくりと探りたいと・・・・そんな自分に苦笑せずにはいられなかった。
「ゾロ?」
彼の名を呼ぶ
アキの声を例えようもなく甘く感じる耳と心。胸の中に湧き上がる歓喜。こんな風に高鳴る鼓動を必死で堪えるなどというのは、一体いつぶ りのことだろうか。
守りたいと思う自分に苦笑する。自分は他人に一切頼ることなく一人で背筋をしゃんと伸ばして勝手に前進していく女が好みではなかったのか。
可愛がりたいと思う自分にも苦笑する。これではまるでフレークを前にしたサンジではないか。目を細め、喉元のひとつもくすぐってやって嬉しそうに綻ぶ顔 を見たいと思うなんて。
とにかく近くに
アキの体温を感じたい・・・ああ、もう苦笑するしかないというところか。気がつけばゾロは奪いたいのではなく与えたがっている。そして
アキのあたたかさを奪って自分のものにするのではなく、
アキから与えて欲しがっている。
そう。与えたい。与えられたい。奪うことに意味はない。そう感じることはゾロにはまったく新しい経験で、そんな自分に戸惑いながらも実は気持ちを昂らせ ているわけだ。
こんなこと、どうやって言葉にできる?
ゾロは一人口角を上げ、
アキの頬をゆっくりと撫ぜた。指先が往復する回数に比例するように色づく頬の色が愛しい。
「震えてるな」
自然と囁きになった声はかすれてしまった。
真っ赤になった
アキはゾロが言葉にはしなかった問いかけをしっかりと受け止めた。
「・・・怖いんじゃなくて・・・・その反対というか・・・」
真っ直ぐな言葉の色気のなさにさえ喜んでしまうのだから、とことん重症なのだとゾロは自覚した。
「ちょっと逃げたくなったら言えよ・・・」
静かに唇を重ねたゾロは
アキのそれを軽く啄ばんだ。不慣れな
アキは予想通り瞳を見開いた。それからほうっと息を吐いた。
「・・・フレークは・・・?」
ああ、とゾロは部屋の中をぐるりと見回した。2人が本を読んでいる間、家族である猫は一人遊びを楽しんでから遅い昼寝をしていたのだ。
「いねぇな。サンジのところにでも行ったかもしれねぇな。目を覚ますとすぐに腹を減らすヤツだから」
つい先日のことなのだが、ゾロ、サンジ、
アキの部屋のドアにはフレーク用の小さな扉がついたのだ。それがまた呆れるほどの・・・・・セキュリティ低下を危惧したゼフがつけたの はタッチセンサーつきのミニ扉で、フレークの鼻でパネルをタッチしなければ開かないという大きさからは想像もつかないハイテクなものだった。おかげでフ レークはようやく一人で勝手気ままに3人の部屋に入ることができるようになった。サンジ達もフレークが通路で戻るに戻れなくてh一人鳴いているのではない かという不安を抱かずに外出できるようになった。
「もう一度・・・」
ゾロが囁くと
アキは目を閉じた。薄い唇が描いていた真っ直ぐな線が僅かに変化し、それを見たゾロはさっきよりも慎重に唇を重ね、包み込んだ。与える ことがひどく心地よかった。
アキの身体がやわらかく弛緩し続けているのが嬉しかった。
「ゾロ・・・」
息継ぎをするように大きく呼吸しながら
アキが呟いた時、ゾロは声を出して笑った。
「お前は、本当に」
本当に何なのかを言葉にすることはなかったが、その代わりにゾロの右手がぐしゃぐしゃと普段よりも力いっぱい
アキの頭を撫ぜた。
アキは頬を染めながらニッコリと笑い、指先をゾロの頬に伸ばした。
「たっだいま、
アキちゃ〜ん。今日の夕飯、期待して!すげェ生きのいい海老が・・・」
高らかに鳴り響いたベルに頭を抱えながらドアを開けたゾロはくくっと抑えきれなかった笑いを漏らした。
「うおっ!マリモ!・・・・うあぁ?!」
ゾロの顔を見たとたんに顔を顰めたサンジは、次の瞬間に弾丸のように足元に走り寄った小さな姿に大声を上げた。わしわしわし。その姿は遠慮一つなくサン ジのスーツに爪をたててよじ登り、肩の上に落ち着いた。
「なんだ、どうした?フレーク」
「「フレーク?」」
サンジは重なったゾロと
アキの声に首を傾げ、それから黙って部屋の中を見た。
アキはカウンターに座っているが、その足元は・・・・ソファからカウンターまでの間の本が斜め一直線に崩れているのがサンジの予想を裏 付けていた。
「ええと・・・・・ただいま、
アキちゃん」
いや、本よりも何よりも
アキの顔の赤さが。
さりげなくフレークから視線を外しているらしいゾロの様子が。
サンジは笑いを抑えるためにわざと大きくため息をついた。
「おかえりなさい、サンジ君」
それでも微笑む
アキの表情にある『気持ち』がサンジの心をやわからく包む。本当ならぎこちなく、自分をこの場の邪魔者だと感じても不思議ではないの に、ただ、くすっと笑いたくなる。
「さて・・と。お前は何だか随分沢山俺に報告したいことがあるみてェだなぁ?フレーク」
「んん〜にゃ!」
サンジの言葉を丸ごと理解しているような顔でフレークが背中を逸らせて返事をした。
ゾロと
アキは・・・・とりあえずフレークと視線を合わせないようにした。
「よしよし、お前のメシの支度をしながらゆっくり聞いてやるからな〜」
「にゃぅ!」
まるっきり会話らしいものを交わす1人と1匹を眺めていたゾロの唇が僅かに曲線を描きはじめた。
アキの瞳に夢見がちな光がともり、そっと息を殺しながら会話の続きを追った。
それは今までもあったようないつもの夜。
けれどそれぞれにまたそれを大切に心に入れた。