弾いて気分がいい曲と聴いて心惹かれる曲は、時々一致しないこともある。でもこれは俺がガキの頃にどこかで聞いて、それからずっとなんとなく時々頭の中に 旋律を思い出していたものだった。
この曲のことを知りあってまだ間もない頃に彼女が口にした。俺たちは・・・仕方がないからマリモ野郎も入れてやるが・・・3人ともまだ互いの距離とか重 なる偶然とかそういうもんをはかりあぐねてる段階だったから突っ込んで詳しい話を聞く事はしなかったけど、俺の頭の中の旋律には彼女の名前と言うおまけが くっついた。
だから。
退院が決まったという知らせがあったとき、決めた。贈る曲ならこれがいい。
ドビュッシーの『月の光』。
よし、明日は早番だから店の後でちょっと楽譜を探してこよう。クソジジイに店の奥に放り込んであるピアノを借りて鈍ってる指を動かそう。そう決めた俺は 気分良く一段抜かしで階段を駆け上がった。
そしたらよ。俺の頭の中で最大ボリュームで回っていた曲が不意にダブってずれた。
聞こえてきたのは『月の光』。それもピアノじゃなくてヴァイオリンの音色だった。
「ドア開けてんなよ、音が丸聞こえで近所迷惑だ」
その部屋に頭を突っ込んだ俺は怒りたいような笑いたいようなおかしな気分になっていた。よくも。このクソマリモ。
部屋の真ん中に突っ立ってヴァイオリンを弾いていたゾロは黙って手を止めて俺を見た。ゾロの耳元にイヤホンの線を見つけた俺は、どうやらゾロに俺の声が 届いていなかったらしいことに気がついた。ゾロはイヤホンを外してポケットのプレイヤーのボタンを押した。
「なんだ。今夜は遅番だったのか」
部屋に帰って、素振りして、シャワー、それから一杯飲みながらヴァイオリンを弾いた。
ゾロの部屋の中はこいつの行動の順番があちこちにあって、笑っちまった。それからもうひとつ、気がついた。
「なあ・・・お前、イヤホンで『月の光』聴いてたのか?お前のヴァイオリンって、ほんとに譜面とか見たことねェの?」
何を今更、といった顔でゾロは短く頷いた。
「入るんなら入れ。ドアは閉めるな。エアコンが壊れたから暑い」
「そういうことか。じゃあ、明日修理屋頼んでおく」
「ああ」
ヴァイオリンを置いたゾロはソファに沈み込んで伸びをした俺の前を通り過ぎてカウンターの前に行った。酒を注いでいるんだろう。
「薄目にしてくれ。朝早いんだ」
言いながら俺はテーブルの上のCDケースになんとなく目を止め、それから手にとって改めて眺めた。『月の光』。床に落ちている破かれたビニールパックの 残骸。つまり。
「買ってきたばっかりかよ」
俺の唇はどうにも押さえ切れないニヤニヤ笑いを浮かべちまってた。退院の日が決まったというメールは俺たち2人に同時に送られた。あれを読んだこいつは 多分すぐに店に行って記憶を頼りにこのCDを見つけたんだ。繰り返し耳で聴いてあのごつい手で調べを奏でられるようになるために。声を取り戻した隣人に曲 を聞かせるために。
「なあ、俺にも聞かせろよ、『月の光』。俺のCDはバラティエに置きっぱなしなんだ」
「・・・そこのケースに入ってる。好きにしろ」
今ではすっかり勝手がわかっているゾロの部屋。奥の床に直に置いてあるコンポにCDを入れて再生をはじめるとふたつの音が流れはじめた。ピアノとヴァイ オリン。
「なあ、これって・・・・」
言いかけた俺はあることを思いついて、でも慌てて頭の中のそれを取り消した。いや、無理だ。・・・こいつとなんて。大喧嘩になるのがおちだ。
「何だ」
グラスを差し出しながらゾロが俺の顔を見た。思わず熱くなった俺の顔。待て。落ち着け。
「・・・何だ」
ゾロが片方の眉毛を上げて顔を覗き込んだから、俺はグラスをもぎとって一気に呷った。いよいよ火照った顔に焦りながら目を戻すと、ゾロは不思議そうな顔 をしていた。真っ直ぐに、戸惑いながら、上手い言葉を知らねェガキみたいに。気がついたら俺は恥ずかしいくらい素直な気分になっていた。
「・・・俺もよ、明日楽譜買ってこようと思ってたんだ」
ゾロは俺の言葉を考えるようにちらりと視線を上に向け、それからこっちを見てニヤリと笑った。
「何だかよ、血を見るような予感がするな」
「・・・まったくだ」
こうしてこの夜、突然のユニットの結成が決まったんだけど。
俺たちの予感は当たっていた。耳と勘で弾くゾロにどうしても合わせるのは俺の方が多くなって。俺の苦労も知らない顔でやたら堂々として弾いてやがる姿に むかっ腹を立てて何度も蹴りを飛ばした。音楽という優雅な世界から一瞬にして格闘技の世界に変わる俺たちをクソジジイが苦笑しながら止めに入って結局3人 でテーブルをひとつ壊した。
それでも俺は重なって響く俺たちの音を結構気に入ってしまった。俺たちの中にある普段は気恥ずかしくて見られちまうくらいなら死んでやる、という感じの ものが自然と行き交っているような開放感。無口なゾロは特に何も言わないけど、結局一緒に練習してるってことはきっとこいつだって満更じゃないんだ。
本番まで後3日。
俺は喜んでくれる大切な隣人の顔を思い浮かべながら鍵盤に指をのせた。