「ゾ〜ロ〜って・・・・お前、何連れて歩いてんだ?」
その日。陰の管理人としてマンションのエントランスへの通路を箒で掃いていたサンジは、前の道から曲がって入ってきた黒ずくめの姿に一声掛けてから手を 止めたまま首をしなやかに傾けた。
「なぁ、
アキちゃん。俺、何か見間違ってるか実は眠って夢見てたりする?」
力を込めて硝子扉を磨いていた
アキはサンジの声を聞いて振り返り、そして瞳を大きく見開いた。
ゾロが一歩歩く。
傍らを小さな四足が数歩進む。
ゾロが反対の足を前に出す。
追いかけるようにゾロの前に身体を投げ出して小さな姿がその足に前足を伸ばす。
「・・・だから、踏んづけちまうぞって言ってるだろう」
視線を足元に向けたまま低く呟くゾロの声を耳に入れた風もなく、大きな毛玉にも見える姿がゾロのブーツに爪をたてる。
黒いTシャツの上に羽織った薄地の黒いコートの裾もその毛玉にはしごく魅力的らしく、ブーツの上から翻る生地にジャンプを試みるのだが、失敗して転がり 落ちてはゾロの足を止める。
「・・・子猫?」
「だよね、どう見ても」
ようやく二人のところまで辿りついたゾロは眉間に深い皺が寄った顔を上げた。不機嫌そうなその顔のどこかにSOSの色を読み取った二人は、顔を見合わせ て吹き出した。
「その子猫、どうしたの?」
「どっからさらって来たんだよ」
ゾロの唇が微かに動いたが言葉は発せられないまままた閉じた。
アキはしゃがみ込んでそっと右手の人差し指をつぶらな瞳の前に差し出した。ピンクがかった小さな鼻が震えながら匂いを嗅いだ。それから 細い爪が飛び出した手でその指先に軽いパンチをしたあと、子猫は小さな舌で
アキの指先を舐めた。温かくてざらりとした感触に
アキは笑った。
黙って
アキの姿を見下ろしていたゾロはサンジの視線を感じて口許に浮かびかけていた笑みを引っ込めた。
「どうするんだよ、そいつ」
「さあな。歩いてたら勝手について来やがった」
「さあなってお前よぉ・・・・」
サンジは大きくため息をついた。
水皿とご飯皿はサンジの部屋から持ってきた小ぶりの白い耐熱ボウルで間に合わせた。トイレは浴室の前に置いた洗面器で済まさせることにし、
アキの部屋から持ってきた新聞紙を細かく裂いて敷いた。部屋中の探検を終えて喉が渇いていたらしい子猫は、皿に入れてもらったミルクを あっという間に舐め終わり水の方にも口をつけ、それからすぐに口の周りを手と舌で丁寧に洗いはじめた。
その様子に見とれていた
アキはサンジの顔に浮かぶやわらかな表情とソファの上から斜めに見下ろすゾロの視線に気がついて微笑した。
黒と白が混ざったような毛並みとピンと立った三角の耳、深い蒼色の瞳、子猫の意思とは別物のように動く尻尾。満足しきった顔になった子猫はあちこちに視 線を動かした後、ソファの上のゾロを見つけて転がるような足取りで近づいた。ポンッと飛び上がってから爪を立ててバリバリとソファによじ登り、ゾロの胡坐 をかいた足に両前足をのせる。弾みをつけるようにして登った足の上で2、3回グルグル歩き回った後、置き物のように身体を丸めた子猫はあっという間に眠り に落ちた・・・胡坐の中にすっぽりと身体を埋めて。
「眠ったね・・・・ゾロ?」
身体を硬くしてもしかしたら呼吸も止めていたかもしれない姿は
アキの声を聞いてようやく緩んだ。
「そいつ、ほんとにお前がいいんだな〜。恐い物知らずっつぅか、野生の本能はどこ行っちまったんだろうな。一番恐ろしげなヤツを選びやがって」
ゾロはまだ無言のまま自分の足の中の毛の固まりを見下ろしている。
「母猫が・・・黒い色の猫だったのかもしれないね」
アキが呟くとゾロは顔を上げ、サンジも大きく頷いた。
「猫ってさ、はっきりした色の違いは多分わからねェのかもしれないけど、これだけ真っ黒だったらわかりやすいもんな〜」
やがて身をよじった猫は面白いくらいに丸く膨らんだ腹を上にして眠り続けた。
「あ〜あ、防衛本能ゼロだな、こりゃ。ゾロ、お前このまま子守してろ。俺はマリエさんに電話して予約を取り消してくる。まだ早いからそれほど迷惑にはなら ないだろ。あとは急いで材料買ってきて仕込みをしねェとな」
驚いたように自分を見上げる二人の視線にサンジは笑った。
「あと4時間でこいつの誕生祝いするはずだったんだぜ、忘れてた?
アキちゃん、俺が帰ってきたらいろいろ手伝ってね。じゃ、いってきま〜す、と」
誕生日の祝いはいらないと言い張るゾロに、美味い酒を飲む機会だと思えと言ってサンジが説き伏せてマリエの店を予約したのが先週のことだった。サンジは この日バラティエを休めるようにスケジュールを調整し、
アキは仕事をひとつ昨日中に終え、何だかんだ言っていたゾロも真昼間に帰宅した・・・子猫つきで。今夜は久しぶりに遅くまで楽しむ予定 の三人だったのだ。
「一人、増えたね」
子猫の寝顔を覗きこんだ
アキは自分の身体がゾロの身体に触れそうな距離にあることに気がついた。意識した途端に顔が熱くなりはじめたのを止められずに目を上げ るとゾロの真っ直ぐな視線とぶつかった。
「・・・俺はすぐにこいつと別れるつもりだったんだがな。お前はどうしたいんだ?」
そう言いながら視線を外さないゾロの瞳の奥に見え隠れするものに心が騒いで、
アキの身体は小さく震えた。
「可愛いだけじゃずっと一緒にはいられない・・・それは分かってるけど・・・」
いたいけな姿を見た途端に心が引き寄せられた。それは多分サンジも同じで当然のことのように小さな身体を掬い上げた。それぞれがその温かさへの責任を感 じていたが、一番それを強く意識していたのがゾロで、だからゾロは自分から手を出さないで二人の好きなようにさせて任せていたのかもしれない。いざという 時に自分が悪者になれるように・・・。
アキはゾロと無言の会話を交わしているような気分だった。
ゾロは
アキの瞳の中に答えを見つけると手を伸ばして白い頬に触れた。そのまま静かに手を引くと
アキの顔はその手について上向いた。視線を外さないままゾロは自分からも顔を近づけて
アキの額に唇を触れた。それから片方ずつ瞼に移動して両方の目を閉じさせると、自分も目を閉じながらそっとやわらかな唇の上に自身の唇 を落した。静かに触れるだけのキス。眠った子猫を起こさないように。震える心を包みこむように。
「俺がいない時はサンジと何とかしろよ。・・・俺が戻れなくなった時もな」
耳元で囁かれた声に頷くことしかできない
アキの頬を涙が落ちた。ゾロは両手でその涙を拭うと
アキの頭を大きく撫ぜた。
「ガキみてぇだな・・・お前も、俺も」
今のままでいいと語るようなゾロの声音と表情に
アキの顔が綻んだ。
寝返りを打って薄く目を開いた猫が一声鳴いた。
「で?何があった・・・ていうかよ、お前、何やったんだ?」
テーブルの上を拭いてグラスや皿を並べながらサンジはゾロに顔を向けた。片方の眉毛を上げてみせてもゾロは忙しそうにじゃれつく子猫の前でバンダナを揺 らしている。
「
アキちゃん、なんだか綺麗なんだよ、俺が戻ってからさ、ずっと〜。嬉しそうだしさ、雰囲気がこう、ちょっとドキッとするよう な・・・・」
サンジはまるで壁を透かしてサンジの部屋で料理の盛り付けに励んでいるはずの
アキの姿が見えているような視線を送った。
「猫を飼うことになったのが嬉しいってのはわかるんだけどな。お前、ほんとに
アキちゃんと俺に甘いよな。もし俺たちが猫嫌いだったら悪役でもやるつもりだったんだろ?出来るよな、お前なら。くっついてるそのチビ スケと別れて後で一人でこっそり泣くことぐらいよ」
ゾロはサンジにちらりと目を向け、また猫の相手に戻った。その広い背中から滲み出ている明るい空気がサンジの口をさらに軽くする。
「初めてのキスとかに浮かれてるなんて言うなよ。お前みたいにこれまで訳の分からねェ生き方を貫いてきたヤツは・・・・え?」
一瞬ゾロの手が止まったことに気がついたサンジは自分が口にした言葉をふり返り並べかけていた箸をテーブルに放り出した。
「・・・マジかよ?」
何も言わないゾロの姿がそのままサンジの目に答えとして映った。サンジはぺたりと床に座りこんだ。それから思い直して膝を正した。
「お前、ちゃんと大事にしたんだろうな、
アキちゃんを大切にしたんだろうな!突然舌・・・いや、ディープ、いや・・・・つまり・・・・」
猫を膝にのせたゾロがサンジの方に身体を向けた。
「あいつが恐がってたか?そうは見えなかったんだろ?」
頬に赤みが差しているサンジとゾロの視線がまっすぐにぶつかった。
先に視線を外したのはサンジの方だった。サンジは首を大きく回してから立ち上がった。
「すげェバースデープレゼント貰いやがって。チビスケのハートも捕まえたしよ」
ゾロは口角を上げた。
そこへノックの音が響き、料理の皿を抱えた
アキが入ってきた。
「あ、ごめん、
アキちゃん!俺が運ぶつもりだったんだけどこのアホが・・・・って何で俺が顔赤くしてんだよ、おい・・・」
サンジの言葉を聞いて状況を悟った
アキの頬が一気に紅潮した。思わず引き返そうとした
アキの腕を掴んで引きとめたサンジは必死だった。
「ごめん、
アキちゃん!俺ほんとになんか嬉しかったからさ・・・あ、でもこのアホが何かしたらすぐ俺のところに逃げてきて。俺が絶対に守るか ら!」
アキはサンジの顔をじっと見つめていたが、やがて微笑んだ。
互いに照れたような視線を交わす二人の横でゾロが大きく息を吐いた。
「とにかく飲むぞ」
「うわ、実は照れてるだろ、お前も。もうちょっと待て、今、ケーキも持ってくるからよ。
アキちゃんと一緒に焼いたんだ。ちゃんと感謝して食えよ」
サンジが飛び出していくとゾロは子猫の首の後ろをつまんで
アキの腕の中に落し、3つのグラスを持ってカウンターに進んだ。
「この子、ヴァイオリンは平気かな」
酒を注ぎ終わったゾロはグラスはカウンターに置いたまま出窓に歩いた。載せてあったヴァイオリンを持ち上げて代わりに半分腰掛けると弓を持った手で弦を 弾いた。
最初の一節で子猫の動きが止まり、大きな耳がぴくりと動いた。
次の一節に入ると小さな全身で大きく伸びをし、ゴロゴロと喉を鳴らしはじめた。
「気に入ったみたいだね」
アキが指先で鼻のすぐ上と顎の下、耳の後ろを撫ぜるとゴロゴロが一層大きくなった。
ゾロが本気で弾きはじめた頃、サンジが足音を殺して部屋に入ってきた。シンプルな円形のケーキの上に仕上げのチョコレートの線が丸くなって眠る子猫の姿 を描き出していた。
サンジは立っていた
アキをソファに座らせその隣に落ち着くと、
アキの腕の中で再び眠ってしまった子猫の背中を撫ぜた。
「あいつには勿体無いくらいの誕生日だよな」
呟いたサンジの瞳はゾロの姿を映しながら微笑んでいた。