イラスト/ソファベッド、床のカーペットを覆い隠している積まれた本の列、壁際を占領しているデスクの上のPCを代表とする無機質なハードたち。
 スイッチを押せば白いスクリーンが下りる。
 コルクボードには書いた本人にだけ意味がわかるアルファベットと数字の羅列を書きなぐったメモがピンで留められている。
 それだけ、という言葉が似合わないほど物の数も種類もあるのだが、やはり、それだけ、という言葉が似合う気がする場所だ。
 ドアを開けるたびにこの部屋には整然とした混沌の気配があるとゾロは思う。ここでくつろぐことができる人間と、できない人間。好みはきっぱり二つに分か れるだろう。ゾロは前者だ。ここを初めて見た人間の大半は住人の性別を男と判断するだろう。室内には男が女の部屋を想像した時に頭に思い浮かべるものは見 事にひとつもない。鏡、化粧品、花、香水の香り。考えてみればそれらはすべて アキにとっては仕事の道具なのかもしれない。日常生活から切り離されて決められた場所にきちんと分類・整理されて恐ろしいほどの数が 揃っているのだろう。

「散らかすなよ」

 ゾロの手の中から懸命に首を伸ばしていた猫は待望の床の感触にヒゲを揺らして小さく足を1、2とついた。このフレークにとって アキの部屋は慣れ親しんでいる住まいのひとつだ。いつも不思議と アキが大切にしているものに爪を立てたり噛んだりはしない。一番のお気に入りは良い感じにくたびれはじめた革張りのソファベッドで、い つまでも飽きずに思う存分爪と歯で攻撃をしかけてはまるで反撃されたように身体を転がしたりする。そのフレークの様子に魅了された アキはソファベッドの優先権を子猫に贈った。今もフレークはソファの角を見上げてうっとりと目を細めている。
 やがて猫がまだ幼さの残る手でパンチを繰り出しはじめたのを確認してからゾロはぶらりと積まれた本の列の間を歩いて適当なものを1冊抜き出し、ドサッと ソファに身体をあずけた。その瞬間に鼻腔が捉えた微かな残り香に不覚にも心臓が速くなる。香水のような人工的なものではない本当にほのかな甘い香り。引っ 越す前に部屋を大きく改造したという アキの部屋にはゾロやサンジのところのような寝室はなく、 アキはこのソファベッドで寝起きをしている。一瞬背中を浮かせたゾロはやがて再び体重を解放し、ソファの表面にそっと手を置いた。その 時ゾロの唇に浮かんでいた微笑はこれまでほとんど誰にも見せたことがないやわらかなものだった。

 今日ゾロは初めて自分の鍵を使って アキの部屋に入った。 アキに頼まれたサンジが口を尖らせながらオーナーに掛け合ってくれた合鍵だ。お前が合鍵なら俺は アキちゃんの部屋とホットラインを引いてやる!と意味不明な言葉を叫びながらも アキの頼みを断れなかったアホコック。実はサンジもある女に自分の部屋の鍵を渡したいと・・・そしてできればその女から鍵を渡されたい と願っていることをゾロは知っている。鍵などどうでもいい、本人不在の部屋に入ることに何の意味がある・・・とずっと思ってきたゾロは、今、何となくサン ジが欲しがっている理由が少しだけわかったような気がしていた。
 本人不在の部屋の中でその本人の気配を感じること。
 これは意外と悪くない。今、知った。

「ゾロ〜〜〜〜〜!」

 玄関前の通路を近づいてくる声にフレークが耳を向けた。完全とはいわないまでもかなり防音状態がよいこのマンションでこれだけ室内に響くのだから、どう やらサンジはかなり頭に血を上らせているようだ。
 ピンポーン。
 レトロな雰囲気のベルの音にゾロは思わず腹を抱えて笑いたくなった。これだけカッカしていてもサンジは律儀にベルを鳴らすのか。本当に・・・まったく。
 のんびりと歩いて行ってドアを開けたゾロをサンジはジロリと睨みつけた。

「早速お邪魔してんのかよ、てめェは。業者、まだ来てねェんじゃないの?」

「いや。もう壁紙を剥がしてる。今日中に仕上げる契約だからな・・・向こうも急ぐだろ」

 今、ゾロが アキの部屋にいることには理由があった。一応ゾロの部屋に所属しているフレークは自分の家ではなぜか一番壁紙を気に入ってしまった。 ジャンプして届く範囲はパンチ、キックで攻撃し、脚力がついてからは時々天井近くまで駆け上ったりする。その猫の娯楽のためにゾロの部屋の壁紙、特に半分 から下の高さまでの範囲はかなりみすぼらしい状態になってしまった。そこでゾロは紙よりは丈夫な板を壁中ぐるりと腰の高さまで貼ることにした。その工事が 15分ほど前からはじまったのだ。

「ったく、昼間に道場でも行く日に頼めばよかったじゃねェか。ちゃっかり アキちゃんの部屋でくつろぎやがって。大体これもお前んとこのあのチビスケ・・・・お!いたな〜。待ってたか?お土産、ちゃ〜んと持っ てきてやったぞ」

 身軽にサンジの身体に上って肩に乗り、頭をサンジの首筋にこすりつけるフレークに対するサンジの声も口調もおそろしく甘かった。ゾロは笑うと呆れる、ど ちらにするかしばし迷った。サンジはフレークの専属シェフを自分で名乗り、限られた分量の食事の中でフレークを盛大に甘やかす。その一方でしつけにも煩 い。つまり、母親みたいなものだ。

「んにゃあぁん?」

 ポンッと飛び降りたフレークもサンジにはゾロや アキにするようにちゃんと話しかける。

「ああ、そうだよな。美味しく食べる前にはちゃんとトイレに行って来い・・・・って、ゾロ、こいつのトイレ、もう出したのか?」

「ああ、そういやぁまだだったな」

 ゾロの部屋、 アキの部屋、サンジの部屋。3人の部屋にはそれぞれフレークのためのトイレとご飯皿が置いてある。仕事の時間が不規則なゾロと アキ、早番と遅番の2つのパターンがあるサンジ。フレークはそんな3人の部屋を自由に渡り歩いて交代で見守られながら育ってきた。

「えっとトイレは・・・・。 アキちゃん、バスルームに入れてたよな?たしか」

「ああ」

「バスルームはあっち・・・だよな?」

「・・・ああ」

「ええっと・・・」

 踏み出しかけた一歩をまた引っ込める。それからまた視線を向けて踏み出しかける。そんなサンジの様子にゾロは首を傾げた。

「・・・何やってんだ?お前」

 サンジの頬に赤みが差した。

「いや・・・あのさ・・・そうだ、ゾロ!お前、 アキちゃんとこのバスルームに・・・その・・・」

「入ったことねぇよ」

「ああ・・・そっか、そうだよな。いや、入りたいっつっても俺が許さん!・・・けどよ・・・俺、入っていいのか?」

 他人の部屋のバスルームに照れる人間を初めて見た。ゾロが思い切り珍しそうにサンジの顔を見直すと、サンジは頭を掻いた。

「お前・・・オーナーの息子みてぇなもんじゃねぇか。入居者が決まる前に全室入ったことあるだろ?」

「そうだけどよ、 アキちゃんのとこはまた話が別なんだよ。すげェ大々的に改造工事が入ったんだ。工事の後に俺がここに入ったのは初めて アキちゃんに会ったあの日で、もう、この部屋だけでも驚いちまったからさ」

 改造工事。そう言えばそんな話も聞いたな。頷いたゾロはため息をつきながら立ち上がった。バスルームのドアを開けて床においてあるはずの猫トイレを出 す・・・これだけのことに何を躊躇っているのだか。

「おい、待て。監督責任者として俺もついてく」

 好きにしてくれ。背中でそう返事をしたゾロは歩いて行ってバスルームに続くはずのドアに手をかけた。ゾロの部屋、サンジの部屋と同じ明るい色のドア。

「みゃう?」

 いつの間にかついてきたらしいフレークの声が足元から聞こえた。

「すぐ出してやるからちょっと待て」

 返事をしながらゾロはドアを手前に引いた。
 そして、絶句した。

イラスト/ 「こりゃあ・・・」

 全身硬直状態のゾロの後ろからサンジが首を伸ばした気配があった。

「どしたの、お前・・・・って、うわ・・・・!」

 4面ある壁の一面一面に描かれた情景。深い色と幻想性の強さで見る者の心を引き込んでしまうような作風はその4枚とも同じ一人の人間の手によるものだと 告げていた。天井は現実の空にはない青色に塗られ、何か模様を描いた白い線と星明りのような点が広がっている。

イラスト/ 「っと待て。バスタブ・・・4つ?!」

 サンジの声に我に返ったゾロはようやく浴槽を視界に入れた。10畳ほどもあろうかという浴室の約半分の面積を占めている浴槽は中で4つに分かれていた。 その一つ一つに十分身体を伸ばせそうな広さがある。一つ一つにちゃんと蛇口が二つずつついていて、シャワーは中央に二つある。洗い場に目を向けると膝の高 さくらいにつけられた一段の棚板がぐるりと長く続き、その上には色、形、大きさともに様々なボトルや器が並んでいた。
イラスト/
「ええと・・・・ここ、風呂、だよな?」

「四つもあるんだからな。疑いようもねぇだろ」

 壁の一面一面それぞれがどこか別の世界に通じているように思えるこの空間で、 アキは何を思うのだろう。イラスト/時々性別を超えた印象を受ける表情、華奢な身体、やわらかい髪。腕をのばせば中にすっぽり包み込んでしまえる はずの身体の内側に秘められた深遠。
 壁と天井をもう一瞥したゾロはフレークのトイレを持ってバスルームを出た。まだ呆けた顔のサンジも後に続いた。二人は無言のまま動いた。ゾロは猫トイレ に紙砂を入れ、サンジはご飯皿に丁寧にフレークの食事を盛り付けた。トイレをすませ、嬉しそうに尾を揺らしながら食事に取り掛かった後姿を眺めた後で二人 はほとんど同時にソファに腰を下ろした。

「煙草・・・吸っていいかな」

 呟いたサンジにゾロは アキがサンジのためにいつも置いておく灰皿を渡した。

「俺、前に言ったことがあったよな・・・ アキちゃんにはマリエさんよりも手を焼くかも、みたいなことをさ」

「・・・聞いたような気もするな」

「なんかさ、深いなァ、あれ。ただ趣味と言っちまうだけじゃ足りなそうな気がしねェ?」

 ゾロは答えなかった。
 4つの情景。無限の広がりを連想させる天井。
 ゾロは難しく考えるのは得意でもないし好みでもない。ただ得たままの直感に何よりも重きを置く。

「門、だな」

 ゾロの呟きを耳で拾ったサンジはゾロの顔を見た。

「モン?あの、通り抜ける門のことか?」

 ゾロは頷きソファに深くもたれて天井に目を向けた。
  アキの過去、声を失った原因、メタモルフォーゼという仕事をはじめたきっかけ・・・そういうものをゾロは何も知らない。そんなものは関 係ないとずっと気にしないできた。考えてみれば アキの技術は普通に学校に通って教育を受けただけでは身に着くはずのないものだ。
 それでも。今知っている分だけで自分は アキのことを必要以上に想っている・・・らしい。多分ゾロはこれからも自分から アキに過去を問うことはない。ただ、今、一つだけ聞いてみたいことができた。

「門、ねェ」

 考えて言葉を転がしながらサンジは煙草に火をつけた。
 その時、静かにドアが開いた。

「ただいま・・・?」

「にゃっ!」

 自分の部屋に帰ってきたというよりも恐る恐る訪問した、というような表情の アキが姿を見せると、フレークが猫族特有のしなやかで敏捷な走りを見せて アキの腕に飛び込んだ。

「フレーク、ただいま。ご飯を食べてたの?」

 本来ゾロは子どもや小動物に対して甘さを増した女の声は嫌いだ。ましてその声の主が女ではなくて男だった場合は心の中で一刀両断に切り捨てる。

「いいね。サンジ君のご飯はとってもおいしいものね」

「おかえり、 アキちゃん!大丈夫、ちゃんと アキちゃんの分も持ってきたよ〜。フレークだって アキちゃんと一緒に食べる方が嬉しいよな?」

 フレークの存在に助けられて通常を取り戻したらしいサンジが アキのそばに行って一緒に猫の方を覗き込んだ。絵に描いたような親バカだ。 アキとサンジ、二人揃ってゾロが苦手な光景を作り出している。なのに。

「なにむっつりニヤケてんだよ、クソマリモ。俺はちょっといろいろあっためるから、お前、ちゃんと アキちゃんに謝る・・・っつぅか、話、しろよ!」

 どうやらサンジの目にはゾロの口元に浮かんだ僅かな微笑が見えてしまったらしい。油断ならない男だ。
 サンジは部屋の奥の狭いキッチンコーナーへ行き、 アキはフレークを皿の前に降ろしてやってからゆっくりとゾロのところに歩いてきた。

「壁の工事がはじまってるね。ゾロの部屋、ドアが開いてた」

 言いながらチラリとバスルームの方を見た アキはフレークのトイレがちゃんと準備されていることを確認した。 アキは頬を染めてゾロの隣りに座り、そっと顔を見た。

「わたし・・・フレークのトイレを出しとくの、忘れたよね?」

  アキの声は細く震えているように聞こえた。そこにある感情は羞恥や照れではない。多分、動揺と微量の恐れだ。それを聞き取ったゾロは反 射的に腕を伸ばして アキの肩を抱き寄せていた。

「悪いな、見ちまった。だが・・・・どうした?あれは・・・お前、どこに行きたいんだ?あの絵を通って」

 ビクッと身体を震わせた アキはやがてゾロの胸に額を寄せた。

「今はどこにも行きたくない・・・ここにいたい。でも、前はずっとどこか違う世界に行って違う人間になりたかった」

  アキの華奢な身体を静かに受け止めていること、ゾロのあたたかい腕に包まれて胸に額を預けていること。触れ合う肌のすべての部分から互 いの存在を確かめ合う。それは今の二人にとって最も必要なことで、サンジが見ていることも意識しなかった。

(ああ・・・ホッとしちまったな)

 二人を見ているサンジの顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。サンジを意識しない二人と同じでサンジもただ黙って二人を見ていた。もっと違う時にこんな場 面を見かけたらきっと顔から湯気が出てしまうはずなのに、今は不思議なほど心が凪いでいた。さすがに今ここで唇を合わせたら黙ってフレークを抱いてこの部 屋を出よう。サンジがそう決めた時二人は離れ、 アキはいつも通り見事に顔を赤くした。

「お前もちったァ顔色のひとつも変えてみろ」

 サンジの声にゾロは不敵な笑みを浮かべた。本当に可愛げのない男だ。サンジはつられるように笑いながら鮮やかな手つきでフライパンの中身をひっくり返し た。

「あのさ・・・あのさ、 アキちゃん!俺、ちょっと聞きたいことが・・・」

 手早く盛り付けた皿をカウンターにのせたサンジは視線で二人を呼んだ。サンジの前に座った アキは首を傾げてサンジの顔を見上げ、ゾロはカップを3つ出して落ちたばかりのコーヒーを注いだ。

「いやその・・・つまりさ、俺、どうしても気になって・・・。 アキちゃんの風呂、4つに別れてただろ?あれ・・・なんで?」

 目を丸くした アキはすぐに小さく笑った。

「仕事の話になるけど・・・本当に聞きたい?」

「聞きたい!すげェ、興味ある。あ、でも先に食べてね。冷めちまうから」

 熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに。
 三人は同時に箸を取り上げた。短い視線を交わす三組の瞳にはそれぞれに笑みがあった。いつの間にか戻っていた普段と同じのどかな空気。それはやはり居心 地がよかった。
 いつか、三人一緒に。
 ふと、 アキは思った。三人で思い切り笑って楽しむことができるところへ行きたいと。一匹の小さな家族も連れて。
 『家族』。
  アキは自分の心に浮かんだ単語に驚いた。それはこの世界では無理だととうに諦めていた筈のものだった。いつかどこか別の世界に行けたら 手にはいるかもしれないと半ば本気で思っていたもの。あの浴室のどれかの絵の続きで。

「どうした」

「あ、 アキちゃんは紅茶の方がいいかな。お湯沸かすから、美味しいの淹れてね」

 いつの間にかできていた自分の居場所は失くすのが怖いほど大切で。 アキは一瞬目を閉じた。大丈夫、この場所は刹那的に人生から切り取られることはない。そう信じたい。
 あたたかくて大きな手が頭に触れた。
 困ったような小さな咳払いが聞こえた。
 目をあけるとそこには気持ちをいっぱいに満たしてくれる笑顔があった。今夜バスタブから眺める絵はきっとどれもその奥に隠された世界を想像させて心躍ら せてくれるだろう。そして アキは決して向こうへは行けない現実を少しだけ寂しく思いながら喜んで受け入れる。今ここに在るからかなっている夢を大切に抱きしめな がら。

2006.6.8

aoさんからのリクエストは「ヒロインの家のお風呂の秘密」

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