蝉時雨




 目覚めた瞬間から空気がじっとりと肌に纏わりついた。佐伯は首の周りに感じる寝汗を暑苦しく思いながら静かに起き上がった。

 さえき

 ふと声が聞こえた気がした。
 いつからか、自分の名前がこの響きだけで十分なように感じていた。大人と呼ばれるようになるしばらく前、この屋敷に初めて来た頃は『映一』という名前を呼ぶ人間がいないことにどこか物寂しさのようなものを感じていたように思う。けれどある人にそう呼ばれるようになってから違和感が消えるまでの時間は驚くほど短かった。
 実際には彼の主は彼に住まいと食事を提供し教育費用と給金を与えているこの家の当主であるのかもしれない。けれど彼が傍らにいて守り仕えるように言われたのはその当主ではなかった。最初は驚いたものだ。まだ子どもの部分が僅かに残っていた彼にも自分が置かれた特異な位置とこの屋敷の風習の特殊さに気がつかずにはいられなかった。そのことに慣れてそれが日常になった今でさえ他人の目を通して見ることを想像すると驚きが蘇る。驚きと、そしてその幸運に対する名前の付けようのない想い。
 佐伯は時計を見た。仕えてきた主を起こす前に水を浴びる時間があった。彼はなるべく身体も心も清浄な状態でその人に会うことを常としていた。

 中庭に出ると一斉に降り注ぐ蝉時雨に包まれた。この早朝からこの騒ぎはどこか季節を超えているように感じられた。この屋敷は古い時代に建てられた大きな洋館で手入れと目立たない改築と改装のおかげで長い時間を生きてきた建物だ。母屋の浴室にはシャワーという最新設備も整っていたが、佐伯は夏は中庭でなぜここにあるのか不思議な古井戸の水で顔や手、首を洗うのが好きだった。汲み上げた水を小ぶりの桶に受けてタオルを絞り首筋を拭くと、身体の周りを通る空気が一瞬清涼に感じられる。仕上げに眼鏡も洗い、手櫛ではあるがきちんと髪を整えると主に会う準備ができた。和風と洋風が互いの領域を分かち合っている庭の踏み石を渡って進むと、かがんで草むしりに励んでいる庭師に出会った。

「佐伯。この花を持っていくか?」

 挨拶代わりに老人が差し出したのはまだ朝露を抱いていそうな白百合の花だった。この香りは強すぎるだろうか。迷いながら佐伯は老人の顔に浮かんでいる表情に心を動かされて自然と花を受け取っていた。

「ありがとう。きっと喜ばれるよ」

 老人の無骨な顔に柔らかな色が通り過ぎた。
 一歩歩くごとに甘い芳香が漂った。1歩進むごとに限界を知らない蝉の声を意識した。やがてテラスが見えガラス戸が見えてくると佐伯の口元に自然と微笑が浮かぶ。中と外から錠を下ろすことができる大きなガラス扉。ここの鍵を持っているのは主と彼の二人だけだ。鍵穴に少し古びた鍵を差込み、音をたてないようにそっと回す。その瞬間にもう雪崩のように背後から襲ってきていた蝉の声は彼の心から完全に消える。
 両開きの扉の半分を開けると途端に風をはらんだカーテンのドレープが流れ出る。それを手で脇によけて室内に入ればゆったりとしたサイズのベッドが見える。その上でやわらかな呼吸を繰り返している身体は小さく、余っている面積の方が遥かに広い。薄い寝具の中で少しだけ身体を丸めるようにして眠っている主。長い黒髪が艶やかに枕の上に広がり、思わず昨夜ドライヤーをあてた時の感触を思い出した。
 佐伯は躊躇った後、そっと百合の花を枕の隣りに置いた。すると主はすぐにその香りを感じ取り寝顔に疑問の色が浮かび上がった。

「・・・佐伯?」

 小さな唇が呟くのと目が開くのが同時だった。

「おはようございます、紫様」

 黒瞳が彼の姿を認め光を帯びたように見えた。子どもらしい子どもでいることを許されないひとりの少女。佐伯は少女を起こすこの毎朝のひと時の光景をを繰り返し心の中に刻み込んでいる気がした。

「・・・おはようございます」

 身体を起こしながら呟いた紫は佐伯を見上げて微笑した。

「夏の音が聞こえる。これは庭に咲いた百合?」

「そう・・・庭師さんがくれたんです」

「・・・高橋さんは去年まではいつもお孫さんのところへ持って行ってたから・・・今年もやっぱり誰かに渡したいんだと思う」

 そうだったのか。佐伯は以前台所で食事をしている時に聞いた話を思い出した。庭師の高橋老人はずっと娘夫婦と一緒に暮らしていたのだが、義理の息子の転勤が決まり一人暮らしになったのだ。佐伯は改めて少女を見た。『高橋さん』という響きが耳に心地よかった。この家には二種類の人間がいると思う。庭師の高橋老人を職業で呼ぶ人間と名前で呼ぶ人間。職業で呼ぶタイプの人間は佐伯のことを呼ぼうとするときにかなり困惑する傾向がある。そして今の彼にはそのことを面白がる余裕があった。

「佐伯?」

 佐伯の沈黙の意味を考えるように首を傾げた紫は百合を手に持った。その姿にはひとつの穢れも曇りも見えず朝にふさわしく澄んで見えた。

「今日も暑くなりますね」

 白い裸足を床に下ろした少女は軽やかに開かれた扉へ歩いた。
 長い夏の休みの初めの日。言葉にはしないが少女がそれを喜んでいることを佐伯は感じ取った。

「こんなに賑やかなのにどこか静かだ」

 蝉時雨の中に足を踏み出す紫の姿を佐伯はそっとまた心に刻んだ。
 


2006.8.4

番外編的短編その1
夏のお話