寄せては返す、と・・・様々な表情を見せる波が一律に形容されることが不思議だった。
子どもと大人。 女と男。 人間も得てして性別や年齢で乱暴なほどきっぱりと分類される。 夏の家、と呼ばれる海辺の別宅にやって来るといつも「大きくおなんなさって」という言葉をかけられる。その度になぜか自分が子どもであることを強く意識させられる。子どもらしくあるにはどうすればいいのかまったく知らない可愛げのない一人の子ども。 まだ高校生である佐伯は大人の目から見れば紫と同じく子どもであるのだろうか。ひそかに興味をもって耳を澄ませていた紫の前で管理人の老人は目を細めて両手を大きく振り上げた。 「立派におなんなさって。旦那様も安心してお嬢さんを先にここへ寄こして下さる事ができるわけだ」 そういう言い方があるのか。 紫は少々拍子抜けした気分で佐伯の横顔を見上げた。この1年で紫はかなり背が伸びたのに、佐伯はそれ以上だった。穏やかな笑みを浮かべながら老人と会話する様子はまるで本物の大人のようだ。籐で編んだ紫の大きなカバンを持ち、背には自分の荷物を軽々と背負い、足元の地面に砂が混じりはじめると不安定さを心配したのかいつのまにか紫の左手を引いていた。 一人で歩ける。それはわかっていた。佐伯が来る前にはもっとおぼつかない幼い足取りながら背筋を伸ばして一人で歩いていた。追いつこうとしていた後姿はきっちり同じ歩幅と足の運びで真っ直ぐに進む母であったり、葉巻の匂いを漂わせながらのんびりと歩む父であったりした。だから、佐伯の手はいらないのだ。なのにそのあたたかさに包まれると何も言う必要がなくなってしまうのが不思議だった。 「疲れましたか?」 足を止め、自分からは決してそれを口にしない少女に代わって佐伯は言った。 「門から少し距離がありますからね。おかげでいろいろなものから切り離されて解放された気分を味わうこともできますけれど」 佐伯は何から己を解放されたいと思うのだろう。 紫の視線に気づいた佐伯は小さく苦笑いした。さりげなく自分の手でまだ幼い手を包むことができたことで気持ちのどこかにゆるみが出てしまったのだとしたら、これはちょっと気をつけなければならない。 紫は佐伯の表情から何かを読んで微笑した。その微笑がまた佐伯の心に幾つかの文字を刻んだ。白い肌を守るために日傘をさした華奢な姿。素足に履いたサンダルの繊細なデザインが細い踝の美しさを引き立てている。シンプル好みの紫が複雑な表情で身につけた純白のワンピースには裾と肩、胸元に柔らかなレースがあしらわれていた。重力に引かれるままに真っ直ぐに落ちた黒髪が海風に遊ばれて時々宙に運ばれていく。黙っていたら飽きずにその光景を呆けた顔で見下ろし続けてしまいそうな気がして、佐伯は意識して紫の手をそっと離した。その時、紫の顔に通り過ぎたように見えた表情は恐らく見間違いだろうと思った。 紫は一人になった自分の手を見下ろし、そのままその手を広げた。地面に映る影が動いた。指の隙間から零れた何かを影が受け止めてくれればいい・・・そう願った。 「喉が渇きませんか?」 佐伯は魔法瓶を取り出した。ここまでの道中で何度か世話になった魔法瓶。中身は冷たい紅茶でいつの間にか紫の好みを知った佐伯がさらに数種類の茶葉を合わせて作り出した味よく香り高い特別なものだ。紫は自然と手を差し出していた。この茶をすすめられたらもしかしたら瀕死の床でも手を伸ばしてしまうのではないだろうか。時々そんな想像をして楽しんでしまう。 佐伯は魔法瓶を開ける前に地面にポケットから出した大判のハンカチーフを敷いた。微笑に促されて紫が躊躇いながらそっと腰を下ろすと深い色の液体を注いだカップを渡された。冷たさが喉を下り、香りが鼻を抜けた。 「夜になったら月が道を作るだろうか」 佐伯は紫の視線を追って一緒に海面を眺めた。 「兎波が走るところを見ることもできるかもしれませんね」 「本物の兎が走るところはまだ見たことがないけれど」 「そうですね、そう言えば僕もないです。身体が綺麗な弧を描いて走るんでしょうか」 二人は微笑を交わした。それはどちらがどちらに影響されたものか、よく似ていた。 「夕方になったらこうしてまた外に出て、朝までずっと波を見ていたい」 ゆっくりと言った紫の顔には憧憬の気配があった。佐伯にはその気持ちが良くわかる気がした。 「磯枕、ですか」 海辺で月と語らいながら旅の間の宿をとる。古い時代の人は舟が出てしまった日没をのんびりと受け止めながら旅をしたのだろうか。 「本当に石を枕にするのはあまり心地よくなさそうだけど」 真面目な顔で言う紫に佐伯は思わず遠慮のない笑みを向けた。 「今夜は夕食の後でテラスに出てみましょうか。毛布を持てば居心地よくできるでしょう」 紫の瞳が輝いた。 「朝までは無理かもしれないけれど、限界まで起きていていい?」 ほんのささいな思いつきを全身で受け止めてくれる少女が愛しかった。この幼い主を喜ばせるためならきっとどんなこともできてしまうだろうと思った。 「紫様の心ゆくまでつきあいますよ。もしも僕が間違って先に眠ってしまったら起こしてくださいね」 佐伯の言葉に紫は笑いながら首を横に振った。 「佐伯は眠らない。わかっているのにそうやって甘やかす」 甘やかしているのではなくて実はこの少女に甘えてしまったのだろうか。 佐伯の中で羞恥と甘美が混ざり合った。 「そうと決まったら紫様は着いたら部屋でお昼寝をなさった方がいいですね」 「・・・佐伯は眠らない?」 「僕まで寝てしまったら無用心ですから。基本的な体力が全然違いますから大丈夫ですよ。ちょっと静かに勉強でもさせていただきます」 夏が終わり秋が過ぎ冬になったら佐伯は大学を受験する。紫にはそれについての具体的な物事を何一つ想像することができないのだが、ただ、佐伯がまた別の世界に自分の居場所を得るのだということだけわかっていた。 その新しい場所に佐伯はどれほどの気持ちを注ぎ込むのだろう。身体の中に湧き上がる幼い嫉妬の感情に紫は苦笑した。これはいかにもまだ気が早すぎる。最も何がどうなっても普段どおりに微笑むことができるための準備は早いにこしたことがないかもしれない。 「本当はもっとたくさん勉強をするものなのでしょう?」 「旦那様の書斎を使わせていただけますから、本を探し歩く手間などがなくてとても効率よく勉強させていただいてるんです。恵まれた環境ですよ。暑くなったらこうして避暑までさせていただけるし」 何より自分をただ当たり前のように信じきっている少女の眼差しが励みになるのだと。言葉にできない部分は微笑の裏に忍ばせた。 「じゃあ・・・・2時間以上、昼寝をすることにする」 不器用な応援のつもりらしい言葉にまた自然に笑ってしまう。大人びた部分を多く秘めていると思えば時々こんな風にひどく子どもらしい風情を見せる少女。この絶妙のバランスには完敗するよりほかはない。 「ありがとうございます。夜の海を楽しみに頑張ってみます。ああ・・・本当に楽しみですね」 「わたしが先に眠っても起こしてくれる・・?」 「・・・僕の立場としてはそっとお部屋にお運びするべきなんでしょうけど。わかりました。今夜だけは」 きっと溢れそうになる想いをきちんと全部しまい込んでからそっと起こそう。佐伯は少女に頷いて見せた。 自分だけがこんなにはっきりと子どもだ。紫は一瞬の胸の痛みをやり過ごした。せっかくの海と月を損ねた気分で見るのは冒涜に近い気がした。 寄せては返す波の音。その繰り返しが心を誘う。 遠い水面を見つめる二人の顔には何かに静かに焦がれる気配があった。 2006.8.12 番外編的短編その2 夏の海のお話 |