光鱗




「佐伯君、金魚、取ってくれる?」

 声が自分の肩の高さから聞こえてきたことが佐伯の意識に触れた。
 縁日、浴衣、ヨーヨー、金魚すくい。
 懐かしさを感じるこの場所に来て良かったのだろうかと自問する。級友たちという日常であるはずの非日常な集団に加わって。

「ああ、いいで・・・いいよ」

 普段は無意識に切り替えが出来ている口調が少しだけ乱れたのは、それまで見とれていた水の中の揺らめきのせいかもしれない。見るからに密度が高い金魚が入れられた浅いプラスチック製の水槽。水槽の内側の水色と透明な水、赤みがかった電球の灯り。その色たちの中で映えるように濃い色を身につけた金魚たち。その集団の中に一匹だけ淡く金色を帯びた白い色が混ざっていた。
 ユラリ、ユラリ。
 尾の揺らし方さえもどこか違って見えるその金魚を佐伯はしばらく前から目で追い続けていた。

「田中、やっぱりお前も佐伯がいいのかよ。よく女の中の争い、みてぇな感じにならないもんだな」

「佐伯君はガツガツしてないしいつも綺麗な空気の中にいるから、誰もみっともない真似はしたくないのよ」

 佐伯は会話を半分無意識に聞き流しながら水槽の前に膝を落とした。時々自分の周りにあって肌の表面に触れそうになる熱の存在を感じることがあったが、それが意識にとどまることはなかった。
 男生徒の方はクラスが一緒になった去年の春の頃は何かと佐伯につっかかってきた人間だった。運動部主将と生徒会役員という校内で輝く肩書きを持ち、成績も良かった。自然とクラスの中心になり常に多くの友人に囲まれていた彼が、なぜか佐伯に言葉でからんだ。真正面からぶつけてくるそれを佐伯は不思議に思いながらも特に嫌でもなかったので普通に受け答えをしていたが、そうするうちにいつの間にか自分の周りにも人が集まっていることに気がついた。面白いと思った。同時に心の片隅がこそばゆかった。
 それまで佐伯は学校と言う場所ではいつも級友たちとの間に自然と短い距離ができていた。無視されていたわけでも疎外されていたわけでもない。クラスの意見が分かれたときにはなぜか最終的な意見を求められることも多く、結局は『認めているが近寄りがたい』と形容される人間だった。
 それでよかった。
 特に他の誰かのようになりたいとは思わなかった。
 学校は佐伯にとっては知識と経験を積むための場所の一つに過ぎず、気持ちの中心はいつも別のところにあったのだから。そしてそれは今も。

 心は白い金魚を追った。
 目はすぐにすくえそうな角にいる集団の中の一匹を捉えていた。
 ユラリ、ユラリ。
 気になる姿を追い続けたくて、狙った一匹を手っ取り早くすくい上げた。背後から沸いた歓声に驚いた。

「もう一匹!まだいけよ、佐伯!」
「佐伯君、わたしのも取って〜」
「負けるなよ、佐伯」

 金魚すくいとはこんな風に熱血するスポーツに似たものであっただろうか。
 小さく苦笑した佐伯は白い姿に目を向けた。灯りと小さな波紋の効果が重なってその身体を覆う鱗が眩しい反射を返したように見えた。
 少女は・・・彼の主は喜ぶだろうか、この輝きを持って戻ったら。その時初めて自分の中に欲という名の感情が湧くのを感じた。逃げていく小さな生き物を追いつめる興奮、捕らえる喜び、ハンターじみた心の熱。

「何だ、もうやめちまうのか?」

 あの男生徒の声に振り向いた佐伯の顔には淡い微笑があった。

「きっと・・・嬉しいと言ってくれても気持ちは違うだろうから」

 誰がだよ、という問いには答えなかった。
 露店の主人が差し出した水と金魚が入ったビニール袋を受け取るとそのまま女生徒に渡し、佐伯は一人、その場を離れた。その後姿を追う視線の中には様々な熱があった。

 浴衣の帯の結び方をこの手はちゃんと覚えているだろうか。
 佐伯は足早に歩きながら自分の手を見下ろした。囚われ限られた狭い世界の中で悠然と泳いでいた輝く生命。彼にはそれを見せたい、ともに一緒に見たいと願う相手があった。
 今日届いた今年の浴衣を不思議な表情で見ていた少女。あの時にはなぜか手伝うから着てみるようにと勧めることができなかった。少女もそれを頼まなかった。昨年までは浴衣が届くとすぐに少女に着せて庭に出た。夜になると浴衣と一緒に届いた花火を楽しんだものだ。
 自分はなぜ今日、この縁日に来たのだろう。なぜ授業が終わったあとに真っ直ぐに戻らずに寄り道をしたのだろう。佐伯の心には後悔の気持ちがあったが、それもあの美しい魚に出会うためだったと思えば自分を許すことが出来る気がした。

 佐伯は足を速めた。
 一刻も早く少女のところに戻り晴れやかな浴衣を着せてあの魚の前に連れ戻る。
 あの小さな生がそれまで逃げのびることを心の中で祈った。



 


2006.8.30

番外編的短編その3
金魚すくい