袖振り草




 今にも地平線を割って吸い込まれようとしている夕日。
 その足元には風をはらんで形良く開いたすすきの穂が揺れていた。
 冬用に変わった制服をきっちりと着込んだ紫の姿は朝の登校時とまったく同じに見えた。髪を結うのが好みではない少女とそのまま自然にされた長髪を許さない校則との間の妥協点とも言える両サイドの細い三つ編み。それさえ髪の毛一筋の乱れもない。学園祭という名のお披露目会で紫はピアノを独奏することになっているため、今日もその練習があったはずだ。担当の教師は技術にも音色にもこだわる厳しい人間だと佐伯は紫の学友から聞いている。けれど紫は今日も今までも一度も練習に疲労した様子は見せず、教師について口にしたことはない。
 朝別れたままの姿で再会すること。
 もしかしたら無意識のうちに二人は同じことを日々の常としたいのかもしれない。

「この時間に帰るのも・・・いいな」

 濃く燃える太陽を見ながら呟いた紫の言葉に佐伯は思わず強く頷きそうになった。
 昨年の今頃は紫はまだ毎日習いごとに通っていた。ピアノ、茶道、華道、英会話、その他講演会に演奏会。母親が望んだ大人顔負けの過密なスケジュールを華奢な身体で淡々とこなしていた。佐伯が迎えに行くといつも微笑んで足早に歩いてきた少女。その笑顔の儚さといつか少女の心が疲労に押しつぶされてしまうのではないかという恐れに胸を痛めながら、佐伯は時々少女と手を繋いで歩いた。そうすると決まって紫ははにかんだ微笑を見せた後、わずかに緊張しながら佐伯の手をそっと握りしめる。佐伯はそんな少女に何かを返したくなり、でも結局何も思いつけずにただ小さな手を握り返した。

「前はのんびりと景色を眺める余裕はなかったでしょう。今だからわかりますね、季節が」

「すすきが袖を振っている」

 紫の母親が去っていった後、父親である当主は少女に本当に続けたいと思うものを選ぶように言った。少女はしばらく考えた後、今は本を読みたいのだと答えた。父親は笑い、娘のために書庫を整理させ、週に一度書店の主を御用聞きに来させることにした。少女は最初ひどく戸惑った様子を見せたが、すぐに自らも本好きな初老の主と打ち解けて一緒にお勧めの書籍を見に行ったりするようになった。同行する佐伯も老人に気に入られ、彼自身も口数には表せない好意を感じた。

「今日はお父様にはお客様があるんでしたね」

 静かに言った佐伯の顔を見上げ、紫は首を傾げた。向けられた真っ直ぐな視線に佐伯の心が波立ちはじめた時、少女は微笑して頷いた。

「男という同じ性別どうしでも、相手が人間として見事だったら惹かれることに不思議はない、とお父様は言っていた。わたしはまだ子どもだけど・・・そうかもしれないと、思う」

 年齢や性別による壁などあると思う人間にしかないのだと。その可能性をひそかに何度も考えたことがある佐伯はただ黙って少女の声を聞いていた。
 今日当主を訪れることになっているのは彼の恋人である男だ。もしかしたらこの人間が紫の元から母親が去っていった原因なのかもしれない。それでも少女は恨み言一つ言うわけではなく、落ち着いた判断を下そうとしている。その姿を傍らで見ている佐伯はただそこにあって決して誰にも見せることのない想いを深めることしかできない。
 それでも。
 佐伯はそっと右手で少女の左手を包んだ。
 少女の肩が一度だけ小さく震えた。

「大丈夫。もう涙を落としたりしない」

 少女がたった一度だけ一筋の涙を零したことを知っているのは今手を繋いでいる二人だけだ。あの時も紫は懸命に自分の中の理性に従おうとして身体を震わせながら感情を抑えていた。佐伯は躊躇いながら少女の髪に触れ、ゆっくりと撫ぜた。佐伯の手は今もその感触を覚えている。

「こうして帰るのも本当に久しぶりですね」

 紫に短い歩幅にあわせようとする佐伯の足。
 歩数を増やして佐伯と速さをあわせようとする紫の足。
 互いのペースがあうまでの短い時間に一緒に口元を綻ばせた。

 風が吹き抜けた。その冷たさを頬に受けるとなぜか繋いだ手のあたたかさを強く意識した。

「夏は終わってたんだ・・・」

 多分、今佐伯が言いたかったこともそれだった。
 返事の代わりにそっと手に力を込めると小さな手が返事を返した。





2006.10.1

番外編的短編その4
初秋