「気持ち良かった〜、モービル!ねぇ、紫さん、乗れる?」
満面の笑みを浮かべた耀司の後ろから入ってきた佐伯は足を止め、一瞬紫に静かな視線を向けた。そっと探るような表情に、紫は佐伯にだけわかる程度の笑みを送った。 大丈夫。 この言葉の意味は実は追求するのが案外難しい。でも、これだけを送れればよかった。そしてこの感覚に懐かしさを覚えた。 大丈夫、と後ろに控えている佐伯にそっと視線を送った日々。 それは学校のそばまで送ってくれた佐伯と離れる時であったり、実家に集った親戚達が佐伯と言う存在に関して無遠慮な言葉を口にした時であったり、父の客人に挨拶に出る前だったりした。 そして、そんな時佐伯はいつも綺麗な微笑を紫に返した。 眼鏡をとったらもっと綺麗かもしれない・・・・いつも紫にそう思わせる微笑だった。 「ゆ・か・り・さ・ん!」 面白がるような耀司の声に紫は笑みを消した。 見れば、氷見も好奇心が浮かんだ瞳で紫と佐伯を交互に眺めている。居心地の悪いくすぐったさに、紫は小さく肩を竦めた。 「美人なのは昔からとっくに知ってるけどね、時々ドキッとさせてくれるんだよね、紫さんは。ねぇねぇ、乗れるの?モービル!乗れるんなら一緒に乗ろう。朝の空気がものすごく新鮮だから」 紫は溜息をついた。 「残念だけど、乗れないの」 「え・・・・じゃあ、町までどうするの?毎回、徒歩?あ、それとも・・・・佐伯さんの後ろに乗っけてもらうんだ?」 「・・・・冬は歩く。雪が融けたら、車もある」 「・・・・免許、ないでしょ?」 「運転はしない」 「何と言うか・・・・優雅なのかな、それってやっぱり」 言いながら耀司は首を傾げた。本当に言いたかった事とは少し違う言葉だと自分で思った。 子どもの頃から佐伯が傍にいて、当然のようにバイクも車も・・・取れるだけの免許を取っているはずなのだ。紫は自分の免許の必要性など感じたこともないのかもしれない。そんな生活を『依存』と考える人間ももしかしたらいるかもしれないが、耀司は少しばかり羨ましいと思う。恐らく、紫は行きたいと思う場所へは自分の足で歩いていくのを基本としているのだろうし、佐伯は天候や紫の体調を考慮して時には先回りをして車を出すのだろう。ごく自然に、当たり前に。そのくせ、車の中で並んでいる自分達を心のどこかで意識しながら。そう、耀司が勝手に想像して羨ましがっているのはその部分かもしれなかった。 「モデルをお願いできるかな、改めて」 湯気が昇るカップを両手で包みながら、氷見は言った。 紫は紅茶のカップを持ち上げようとしていた手を止め、カップをテーブルに置いた。 耀司は最初、自分のカップを持って立っている佐伯を見上げ、それから間違いに気がついて紫を見た。 「モデルって絵の、だよね?もしかして・・・・一糸纏わず、だったりするのかな」 紫も佐伯も見事に表情を変えなかった。 氷見がクスリと笑った。 「どっちでもいいんだ。俺が描きたいのは・・・・そう、その瞳と真っ直ぐに伸ばした背筋、だから」 紫はしばらく黙って氷見を見た。心の中で唇に残っている感触をゆっくりと転がした。 氷見はあの口づけを手段に返すと言った・・・・何を?いや、大体想像はつくのだが、果たしてそれは紫が返してもらっていいものなのだろうか。そんな資格が、自分にあるか? 紫が見上げると、佐伯は静かに紫の隣りに腰を下ろした。 「何を描きたいんですか?氷見さん」 氷見は煙草を咥え、火をつけた。 「あの頃、俺が見たかったもの。お嬢さんのポーカーフェイスの裏にあったもの。どうやらまだお嬢さんの中から消えてしまってはいないようだし、今なら俺も余計なことを考えて目を曇らせずにそれを描けるだろ」 「何かとっても意味深そうで、でもよくわからない言葉だな。氷見さんってさ、やっぱりこう、自由奔放に油絵の具を操るの?」 耀司が口を開くと、凝固しかけていた空気が解けた。理由不明の緊張感。耀司はまた楽しそうに笑った。 「いや、今回は水彩」 「水彩?意外だ。氷見さん、本能のままにキャンバスに絵の具を塗りたくって、それでいてどこかストイックみたいな感じが似合うよ」 「嫌いじゃない。でも、あの頃のお嬢さんを描くにはふさわしくないな」 「あの頃っていつぐらいなんだろう。楽しみだな、すごく。ねぇ、俺、見学していい?」 「その楽しそうな口を閉めておけるなら」 「了解」 「・・・・やっぱりこうなるのか」 紫は呟き、佐伯は微笑した。 「冬眠してはいられなくなりましたね」 「おかしなことがなかなか終わらない」 「そんなこと言うけど、主役なんだから楽しまないと損だよ、紫さん」 陽気な耀司の声に、紫はホッと息を吐いた。 ひどく緊張していた。 でも、その気配を誰にも見せたくなかった。 2008.2.7 リハビリ開始、です |