冬籠り 11




 佐伯は自分の部屋にいた。
 紫はやはり緊張しているだろうか。そしてそれを決して表に出さないまま、じっと氷見に大きな瞳を向けているだろうか。
 佐伯は静かに視線を天井に向けた。
 2階の紫の部屋。氷見は天窓と四方の窓から溢れる光と解放的な空間を一目で気に入ってしまった。だから、そこがアトリエになった。そして夜は耀司と共同の寝室にもなる。
 紫はそのことに不自由を感じていないだろうか。佐伯はそこを気にかけていた。2階の部屋は紫の知的好奇心を満たす場であり、作業場であり、1日の始まりと終わりを迎える場所だ。そこを耀司や継人に貸すことには、確かに抵抗は感じたが彼らが紫の客であるゆえに素直に受け入れることができた。
 しかし、氷見は。
 佐伯はふと手に持っているパイプの事を思い出した。すっかり自分の体温が移って温まっているパイプ。久しぶりに一服してみようかと取り出したそれは、学生最後の日に購入したものと同じ形をしている。あの時、パイプが似合う年令と風格が欲しいと思った。それなのに今もまだ、パイプに対して自分を『幼い』と感じてしまうのだ。外見的には人にさして違和感を与えない程度に馴染んでいるはずなのに。
 煙草の袋に手を伸ばしかけ、やめた。
 もしかしたら紫がこの部屋を必要とするかもしれない。恐らく、今夜もこの部屋で、ベッドで眠ることになるだろう。そして佐伯は居間のソファで、普段より少しだけ近い紫との距離を感じながら、許されるだけ深く眠るのだ。
 机の上にパイプを置いた佐伯は、枕の上に残る一筋の長い毛髪を見た。その瞬間、手の10本の指すべてにそのしなやかな感触と指の間を通る滑らかさが蘇った。
 大学に入学した年の夏まで、毎晩、洗い立ての紫の髪をこの手で乾かした。
 自分の中に生まれたのを知っていながら押し殺していた密度の高い塊の熱さに耐えられなくなって、紫の髪に触れることができなくなった。
 それがきっかけで佐伯の中で日々増していった苦痛。
 その苦痛を強引に緩和してくれた人間。
 それが、氷見だった。




「探してたんだ、モデル」

 声をかけられた時、佐伯はその対象が自分だとは思わなかった。だから、ベンチに座ったまま空を見上げていた。
 氷見が佐伯を気に入った切っ掛けはその無関心ぶりだったという。当時、氷見は秀でた容姿と周囲に漂わせている倦怠混じりの冴えた空気の効果によってキャンパス内でトップクラスのカリスマ性を帯びていた。
 入学後1ヶ月。佐伯は自分で考えて選んだ基礎教養の講義を真剣に効率よくこなし、他の時間のすべてを紫のために使っていた。それは高校時代と基本的に同じ時間の使い方だったが、比べると若干不規則なものになっていた。1日中講義がある日、午前だけの日、午後だけの日。不規則な中の規則性に慣れ始め、ぽっかりと空いた休講の時間を過ごすために座った中庭で、氷見に声を掛けられたのだった。

「気がついてるか?俺のこと」

 自分に言われた言葉だろうか。
 佐伯は肩越しに振り向き、斜め後ろに立っている氷見を黙って見上げた。
 背が高いな、と思ったのが第一印象だった。ちょうど佐伯と同じくらいの高さに見えた。全体的に肉付きが薄く、色素も薄い。そこも似ているかもしれない。自由そうに波打った髪は肩までの長さがあり、瞳の光が強い。唇は紅い。
 全体的な印象を心の中でまとめてから、佐伯は言葉を選んだ。

「失礼しました。ぼぉっとしてたみたいで」

 氷見は笑みを浮かべ、ストン、と佐伯の隣りに座った。

「いや。そのぼぉっとした顔が良くて声掛けたんだから。何か抱えてるんだろ、胸の中。そういう人間の顔を描きたい」

「・・・書く?・・・・描く?」

「絵の方」

 この大学に美術関係の学科はあっただろうか。
 校舎を一瞥した佐伯に、氷見はさらに深い笑みを向けた。

「趣味だ、単に。空き部屋見つけて転がり込んで、勝手に描いてる」

 佐伯の眉が小さく持ち上がった。
 いくら使っていない部屋であっても、ただの一学生がそれを個人的に使用することは簡単に許される種類のことだろうか。

「大学関係者に身内の方でも?」

 氷見は今度は声を出して笑った。

「お前、俺のこと全然知らないらしいけど、ちゃんとそこまで気がつくんだ。話し方とか、その顔つきとか、本当に先月までただの高校生してたのか?」

「・・・高校生でした」

「ふぅん?まあ、いいか。確かに、俺の祖父が今、この学校のトップだ。関係ないけどな・・・・って顔をしながら空き部屋を私物化させてもらってる俺は、ちゃっかりした人間に見えるだろうな」

 隣りにいるこの男がどんな人間に見えるか。
 佐伯はようやくそれを考えてみた。

「やっと俺をちゃんと見てるみたいだが・・・・お前、他人に余り興味がないのか?それとも、誰か1人に集中しすぎかな」

 巧みに空気を読む人間だ、と佐伯は思った。それから時計を確認し、立ち上がった。

「4講目、あるので」

「で?その後は?」

「帰ります」

 紫の所へ。急げば学校へ迎えに寄れるかもしれない。
 佐伯の顔を明るい光が通り過ぎた。
 氷見は面白がるように口角を上げ、佐伯の表情のすべてを追っていた。

「じゃあ、お前に時間がありそうな時に、また会おう」

 不思議な男だ。
 佐伯は氷見に背を向けて歩きながら小さく首を傾げた。名前は訊かなかった。相手は多分、会えそうなタイミングを外さずにまたキャンバスの中の佐伯を見つけるだろう。そういう人間だと思った。
 しばらく歩いてから、自分が絵のモデルを依頼されたのだと言うことに気がついた。
 断ろうと決めた。
 佐伯にはモデルをするよりも、もっとずっと自分の時間を使いたい相手がいる。そしてその時間の中で相手の笑顔を束の間でも見ることができれば、とても幸福な人間になれるのだ。
 自分が幸福になる術を知っている人間は常に幸福である。
 この時、佐伯はこのことを疑っていなかった。
 自分ほど幸福な人間は滅多にいないだろう。
 それを信じていた。


2008.2.9

佐伯の過去編をちょっと書いてみます