冬籠り 12




 ここは、そもそも自分の部屋なのだ。
 紫はそっと肩を動かし唇から細くゆっくり息を吐いた。
 数日でいいのだと氷見が滞在を決めた結果、2階は彼のアトリエ兼寝室になった。氷見の滞在の目的は紫の絵だと言われ、その結果窓の前に置いたシンプルな形の木製の椅子にこうして黙って座っているわけだ。
 戸口のそば、床に座り込んでいる耀司の表情が面白かった。どこへでも違和感なくスルスルと入り込む要領と愛嬌のよさは幼い頃から少しも変わらないが、今、彼の顔には見慣れない生真面目な表情がチラチラと揺れている。その根元に在るのは恐らく緊張感だ。そして、その緊張感はもしかしたら紫から感染したものなのかもしれない。耀司が軽やかな笑みの中に隠しているシンパシーの能力。それがあるから彼は、どこにでも入っていけるのだ。

「何を考えててもいいから、こっち見て。俺から目を逸らさない」

 静かな室内に低く響いた氷見の声に従いながら、紫はその声が帯びている強い引力を感じた。
 これが、そうなのだろうか。
 紫は感情を隠した瞳で綺麗に整った氷見の顔のひとつひとつの造作を見た。40歳を越えてそこにある美は恐らく少し穏やかになり、人間らしくなっているはずだ。ならば、この氷見が青年だった頃・・・・・佐伯と出会った頃はどれほどに切れ味鋭い空気を纏っていたのだろう。容赦なく他人の目を射て焼き尽くす美しさ。もしも本人がその効果を心得ていたなら、毒とも凶器ともなりうるもの。
 しかし、紫は氷見の外見よりもその声により引力を感じていた。わざと言葉尻に荒い響きをつけた話し方。その奥に隠れている知性と品性。
 佐伯とは逆だ。
 紫は目を開けたまま、心の中の瞳を閉じた。
 穏やかで深い佐伯の声。静かで礼儀正しい口調。控え目な言葉。
 あの声が出てくる、佐伯の奥深く。
 そこにある熱の奔流にあの頃の紫は気がつかなかった。己の心と身体をじわじわと焼き尽くす炎。それが自分の中にあるということに気がついたのも、結果的には遅かった。

「・・・・目を開けて。全部」

 言われるままに意識を覚ますと、氷見の瞳が見えた。強い力を感じさせる両眼。紫の中を覗いて吸い尽くそうとする意志。
 ああ、そうか。
 紫の唇に極小の微笑が浮かんだ。
 氷見は、自分の中にある炎を少しずつ引っ張り出して燃やし尽くそうとしているのかもしれない。自分らしく生きるために。自分らしいという意味を確かめるために。
 紫の微笑を受けた氷見は一瞬、手を止めた。

「いい顔だ・・・・・綺麗だな、やっぱり、どうしても」

 耀司がホッと息を吐いて両足を伸ばした。




 珍しくうたた寝をしている紫の姿を見つけ、佐伯は静かに足を止めた。
 テラスに続くガラス戸を半分開いたまま、風に揺れるカーテンの中で肘掛け椅子の上で膝を抱えて。
 座っている姿勢も肘掛に額を埋めているやり方もこれまでに見たことがないものだった。そこには年令相応の少女がいた。
 中等部に進んだ紫の新学期は大学に入ったばかりの佐伯のものに勝るとも劣らずの忙しいもののようだった。その原因の大半が人間関係らしく、佐伯は自分の無力さを感じ続けていた。もしも紫を困らせているのがせめて勉強だったなら・・・・もっともそれはあり得ないのだが・・・・佐伯は専属の家庭教師になることもできただろう。そうできれば少しは紫の役に立っていると思うこともできたのに。
 ベッドに運ぶか迷いながら、佐伯は1歩ずつ足を進めた。
 長い髪、白い肌、静かな寝息。
 そのひとつひとつが彼が守りたい、守り続けたいものだった。それが理由で大学を受験することを躊躇った時、当主である紫の父、理一は目を大きく見開いてから笑ったものだ。

「目先の備えも確かに大切なものだとは思うが、お前は今、その先のために人間として大きくなろうとしているのじゃないか?自分の器を作るために轆轤(ろくろ)を回し始めたばかりだと言うのに、急に止めたら見る影もなく崩れてしまうぞ」

 崩れる粘土の様子をありありと想像できたから、佐伯も思わず苦笑した。理一には確かに紫の中に流れている血を伝えた者らしい雰囲気があり、佐伯はその前では肩に力をいれずに立つことができた。

「でもな、佐伯。もしかしたら、これからお前は自分の中に自分の邪魔をするいろいろなものを見つけていくのかもしれない。それを無視しても、逆に踏みつけても苦しむのはお前自身だ。だから、これだけは覚えておくといい。どっちに苦しんでも、或いはふらふらと揺れて両方に苦しんでも、わたしはお前を見ている。お前が紫のそばにいようと思い続けてくれる限り、ずっと見ている」

 理一は佐伯の中にあるものをどこまで見通しているのだろうか。
 佐伯は理一の言葉をありがたいと思いながら、まだよくわからない予感のようなものを感じた。
 じっと自分を見ている理一の目を静かに見返しながら、佐伯は頷いた。

「ずっと、ずっと見ていていただけるように・・・僕は、します。そのために自分のギリギリまでの大きさの器を作りましょう」

 理一の唇に微笑が浮かんだ。あたたかなその表情がどこかまだ先を見て悲しんでいるような、そんな印象を与えたのはなぜだろう。佐伯はその印象を振り払い、微笑を返した。

「・・・・紫様」

 意を決して少女の方に屈み込んだ佐伯は、そっと両腕を少女の身体と椅子の間に差し入れた。小さく頭を揺らした紫は、それでもまだ目を閉じたまま眠り続けている。
 随分、背が伸びた。
 佐伯は自分の腕からはみ出して落ちる手足の長さに嘆息した。こうしている今も過ぎていく時間を少しだけ苦く思った。
 その時、紫の片手がゆっくりと持ち上がり、佐伯の肩に触れた。身体が揺れたことでどこかへ落ちていく錯覚が生まれ、無意識に何かに掴まろうとしたのかもしれない。佐伯は息をひそめた。その場で足を止め、もう一方の手を待った。しかし、左手は動かず、右手も力を失って静かに落ちた。

「紫様」

 名前を呼びながら佐伯は顔を伏せた。
 もしも細い両手が彼の首に回っていたら恐らく抱き返していたはずの自分の腕に残る力。そのすべてを名を呼ぶ声にこめ、そっと注意を払いながらベッドに少女を寝かせた。
 自分が、守りたいもの。
 見下ろす瞳はすべてをしまい込み、乱れた髪に触れた指はゆっくりと動いた。


2008.2.18

外は快晴
やっと書けました