冬籠り 2




 予想通り、吹雪になった。
 少年の身体を脇に抱えて扉を開けた佐伯は部分的にテラコッタのタイルを張ってある玄関スペースで頭に着いた雪を払い落とした。居間との境界も兼ねて置いてある両面に棚を備えたオープンタイプのハーフラック越しに視線を走らせると、彼の主が無表情に煙草を指で弄びながら彼の方を眺めていた。

「煙草ですか、紫様。吸われますか?灰皿をお出ししましょう」

「いや、いいんだ。散歩の途中で突然自販が雪山から顔を出していて、何となく買ってみただけだから」

 多分、彼女が買わないと雪に埋もれてしまったらまたしばらく客はこないだろうから。主の思考を頭の中で辿った佐伯の眼鏡の奥の瞳がほんの僅かに和んだ。もっともそれは表面に付着した溶けた雪の水滴で誰にもまったく見えなかったのだが。

「気が向かれた時のためにマッチも一緒に出しておきましょう」

「・・・それはいいが、その子ども、大丈夫なのか?病院へは行かなかったんだな」

「わたしで何とかできそうでしたので。申し訳ありませんが・・・」

 言いかけたときにすでにソファから立ち上がってのんびりと椅子に移動しはじめた紫に佐伯は小さく頭を下げた。

「ちょっと寝かせておいて風呂に湯を張って参ります」

 少年はウィンドブレーカー上下にスニーカータイプの冬靴を履いたままソファに寝かされた。
 佐伯が静かに離れて行った後、紫は立ち上がって子どもの顔に視線を落とした。
 鼻の頭と頬が赤い。帽子をかぶっていなかったためか耳も真っ赤だ。髪の毛は濡れて額に張りついている。手袋をはめた手は・・・
 その時、少年は目を開けた。その開け方と開けた直後の表情から、恐らく少し前から少年は意識が覚めていたらしいことを紫は知った。小さな身体が震えはじめた。

 二人は黙って見つめ合った。

「うちに用があったのか?」

 一瞬大きくなった子どもの瞳が答えを告げた。そしてその『用事』について何かその子どもには隠しておきたいものがあるらしいことも。

「・・・いい。後は佐伯に任せる」

 紫は子どもに背を向けて椅子に腰を下ろすと手に持っていた煙草をテーブルの上に投げ出した。
 沈黙の中で窓の外の風の音とストーブの中で薪が爆ぜる音、子どもの荒い息づかいが実際よりも近い距離に聞こえた。子どもの視線を背中に感じながら座っているのは気分が落ち着かなかった。

「手足を見てみようか。凍傷の心配がなかったらすぐに身体を温めたほうがいい」

 佐伯が戻ってきた途端に時間がやわらかく動きはじめた。

「・・・帰る。小父さん、俺、帰る!」

 焦りはじめた子どもに微笑みかけながら佐伯は濡れて重くなっている手袋と靴を脱がせた。

「ああ、よかった、ほんの少し霜焼けになってるだけだ。おうちに電話しておくといいよ。吹雪が止んだら送って行くから」

 紫には見なくても子どもの表情がだんだんと落ち着いていく様子がわかった。
 それはそうだ。傷を負って恐怖で我を忘れている動物さえもやがて佐伯の手を舌でなめり、身体をあずけるようになるのだから。

 素直に後ろを着いて行く子どもを浴室に連れて行くと佐伯はマグカップとココアの瓶、湯気がたつ薬缶を持って戻ってきた。

「・・・前が見えてるのか?」

 まだ水滴がついたままの眼鏡に向かって呟いた紫に佐伯は真面目な顔で頷いた。

「それにどうせまた湯気で曇りますから」

 ティーポットに湯が落ちると爽やかな香りが広がった。
 眼鏡を外してハンカチで拭ってから佐伯はマグカップにココアと砂糖を入れて微量の湯を注ぎ、小さな木べらで丁寧に練りはじめた。その手つきは見慣れたものであると同時に随分久しぶりに見た光景だった。そう言えば一時のココア・ブームで店からココアが姿を消した時・・・あれからずっとココアを頼んでいなかった。ココアが切れたことを告げる佐伯の声がいつも通り穏やかに事実を告げながらどこか悲しそうだったのを覚えている。だから、あれから紫はココアのことは口にしなかった。

「健康食品ブームはすぐに対象物が入れ替わるんだな」

 佐伯は顔を上げて微笑んだ。

「多めにミルクを沸かしたんです。紅茶の方はわたしがいただきます」

 そう言って立ち上がった佐伯の後姿を紫は黙って見送った。
 今練っていたのは最初から紫の分だったのか。そうだ。湯に入ったばかりの子どもの分を今から作っておくはずはなかった。あと5分後?10分後?ちょうど良い時にもう1杯のココアが出来上がるはずだ。

 紫は窓の外に目を向けた。
 何もかもが白い渦に隠されていた。
 


2006.1.24

ストーリーはどこ?
眼鏡萌えしている場合ではないような