冬籠り 3




 子どもの、ココアに向けられたあからさまな不信感に満ちた視線。
 紫は唇を歪めて席を立ち、ソファに移動した。直接関わらずに観察するにはちょうどいい距離だ。

「ココアはお嫌いでしたか?」

「・・何、それ。オバサンたちが飲むやつ?」

「いえ、年齢や性別に関係なく身体を温めるには良い飲み物なのですが」

「・・・」

 子どもはちらりと紫に視線を向けた。「オバサン」代表を見つけたといったところなのだろう。
 この子どもの母親の年齢は知らないが、確かに紫はこのくらいの年頃の子どもを育てていても不思議ではない年齢だ。漆黒の長い髪と黒ずくめの服装ももしかしたら今時の母たちの中ではそう浮かない存在なのかもしれない。春は若草色、夏は白、秋は茶色、冬は黒。紫は季節によって服の色を変える。保護色のようだと自分でも思う。冬だけは警戒色。

 紫が無関心に眺めていると子どもはテーブルの上のカップに視線を戻した。
 佐伯は子どものために椅子を引いて待っていた。

「吹雪が止むまでに服も乾くでしょう。とにかくおかけください。それから飲み物のお話を」

 どこに何をかけるんだ。
 そんな顔ですばやく周囲を見回した子どもの肩と背中を大きな手がそっと押した。
 ストンと椅子に腰を落とした子どもは目を丸くした。

 濡れた頭からまだ雫を落としながら借り物のシャツとズボンの袖と裾を何重にも折り縮めて。
 そんな姿で今更警戒してもまったく意味はない。自分のココアの最後の一口を飲み干した紫は普段より少しだけ音をたててカップを置いた。

「知らない人の家にあんたは入ってしまったし風呂まで借りてしまったんだ。もう一つ約束を破っても大して状況に変わりはない」

「命があってなにより、ということですね」

 子どもの視線が紫と佐伯の間を往復した。
 紫のぶっきら棒な物言いと佐伯の物柔らかさ。まったく違う二人に共通するのは「相手を待つ」という姿勢。
 子どもは自分の回りの空気の軽さを確かめるように、あるいはもしかしたらココアの甘い香りを吸い込むためか、呼吸の音を小さく響かせながらもう一度部屋の中をゆっくりと見回した。
 一面だけレンガを貼ってある壁際で存在感を示している薪ストーブ。そこから続く黒い煙突。2階の一角は屋根裏まで吹き抜けになっていて組まれた梁がそのままむき出しの色を見せ、その中の一本の上にはなぜか鳥の巣がのっている。
 自分の家に対する先入観とここに住みはじめてからの既成の感覚の影響をなるべくなくして、紫は子どもの視線を追って室内を眺めた。この子どもはどこに違和感を覚えどこに「当たり前」を見ているのだろう。
 視線を合わせた二人は同時にそれを逸らした。

「蜜柑を焼くと美味しいと聞いたことがありますが」

 また同時に・・二人はまだテーブルの横で立っている佐伯の顔を見上げた。
 佐伯は彼を見るどちらの顔にも驚きの気配を読み取った。子どもはその瞳を見開いた大きさに、紫はその瞳を通り過ぎた光のようなものに。佐伯の口もとは綻んだ。

「ああ、ここは雪国でもそういう習慣はないんですね。それともそういう食べ方は昔風なんでしょうか。こういうストーブが焼き蜜柑にはぴったりだと思って実はちょっと楽しみにしてたんですが」

 焼き蜜柑。
 佐伯はいつからそれを楽しみにしていたのだろう。静かでノーブルな40歳のくせに実は「年相応」とは見かけも心もかなり離れているところがある気がする。眼鏡の奥の楽しげに微笑している瞳は紫にはいつまでも正体を捉えきれない気もちにさせる。
 子どもと紫の目がストーブに向くと佐伯は微笑を深くした。

「ちょっと試してみたくなられましたか?蜜柑を持ってきましょうか」

 思わず頷いた小さな頭と一筋の髪も揺らすことなく彩られた唇の微かな動きで賛意を示した二人に佐伯はひとつ頷いた。
 その時、外を吹き荒れる風の音の中に突然大きなエンジン音が重なった。

「珍しいですね、モービルに乗る方がいらっしゃるとは・・・」

 佐伯がハーフラックの前を通って玄関スペースに足を向けたとき、厚い扉を叩く大きな音が室内に響き渡った。

「笠地蔵はモービルでは来ないでしょうね」

 佐伯の呟きに子どもが吹き出した。どうやらこの民話は知っていたらしい。
 佐伯が扉に向かって歩きはじめたとき、大きな音とともに扉が外に向かって開いた。途端に吹き込んできた白い風雪の中から、大きな靴音と陽気な声がにぎやかに聞こえた。

「紫サン、頼むから携帯の電源、ちゃんと入れといてよ。予告なしなんて無粋な真似、あんまり好きじゃないんだから」

 声の主は佐伯と比べると小柄な身体から雪が積もったマントのようなものを床に脱ぎ落とした。

「今度ばかりは全然方向違いに進んでたらどうしようって何度か真剣に考えたね」

 綿帽子と化した毛糸の帽子とゴーグルを外すといかにも若々しい青年の顔が現れ、紫と佐伯のそれぞれにむかって優雅に一礼をした。
 


2006.1.29

坂田靖子さんのどれかの作品のあとがきを読んでからずっと憧れていた焼き蜜柑
今度はもしかしたらゴーグル萌え