青年の常に笑いを浮かべているような思いがけない大きな瞳を。
紫はため息を吐き出した。 「耀司さん。持ち込んだ雪はなるべく早く外に戻して」 耀司は濡れてぴったりと張り付いている前髪とは対照的に脱いだ帽子の下からあちこちにやわらかく跳ねたおさまりの悪いくせ毛を振った。それは顔に水がかかったときの子犬のような動きだった。 「変わってないね、紫サン。静かなままでいつの間にかいろいろやってこんな土地に引っ込んで。それでも俺のことはガキん時から変わらずの『耀司さん』なんだ。雪はさ、このまま溶かせばいいよ。ドアを開けたらまたどっさり吹き込むから」 「お座りください、耀司様。あとはわたしがやりましょう」 佐伯がいつのまにか差し出していたタオルを受け取った耀司は口角を上げた。 「久しぶり、佐伯さん。あんたも苦労するよね、ご主人が周りの予想を裏切ってばっかりで」 言葉を返さずに微笑する佐伯の顔に一瞬強い視線を向けた耀司はタオルでごしごし頭を拭きながらリビングスペースに移動した。 「いや〜、あったけぇ〜〜〜。あれ・・・・この子、どうしたの?近所の・・・っていってもこの家の近所って近所とは言えないけどさ。そんな感じ?」 「道で拾った。吹雪の前に佐伯が」 「ふぅん。・・・でもさ、多分見つけたのは紫サンなんでしょ」 耀司は突然増えた大人を見ながら椅子の上で身体をかたくしている子どもの横を通り過ぎ、向かい側に腰を下ろした。 「なるほどね。町でここの場所を聞いた時、なんだか学校帰りに寄り道して吹雪で『丸太小屋』に足止めになってるとかいう男の子の話を耳にしたけど、それが君ね。ふぅん」 子どもがテーブルに視線を落とすと耀司は笑った。 「賭け、したんだろ?『丸太小屋』に住んでる人の様子を写真に撮ってくることができるかどうか。あのさ、それって盗撮って言って立派な犯罪だから成功しなくてよかったと思うよ」 一瞬で面白いほど紅潮した子どもの顔を。 紫のため息の最後にほんの一瞬笑いの気配が付随して消滅した。 「そういう事情か」 「紫様は滅多に町までは行かれませんからね。わたしも町ではしょっちゅう好奇心が多目の視線を感じますよ。どなたも直接質問はされませんが」 佐伯は耀司の前に湯気がたつカップを置いた。 カップを持ち上げて勢いよく一口飲んだ耀司は慌てて口をすぼめて湯気に向かって息を吹きかけた。 「大人が好奇心満々なんだから、子どもだって影響されるさ。何か悪者が隠れてるとか宝のひとつも隠してあるとかそういうんじゃないの?」 子どもは小さく首を横に振った。 「・・・女の人だっていうのは知ってるから・・・でも一緒にいる小父さんは名前、違うみたいだし・・・愛人とか、そういうの・・・」 「愛人〜?何だか夢も何もないよな、その発想。おまけに紫サンと佐伯さんには一番似合わない役柄だし。そんなちょっと影がありそうな住人を想像しながら写真を隠し撮りしようなんてさ、全然子どもらしくもないし可愛くねぇの」 笑い飛ばす耀司の前でいよいよ顔を赤くした子どもの顔を佐伯はそっと覗き込んだ。 「さっきの続きをしましょうか。蜜柑を持ってきましたから。耀司様、子どもは光にも影にも同じように惹かれるものでそういう意味では大人よりも素直で公平だと思います。あなたのようにね」 耀司は面白そうに佐伯を見上げた。 「俺、中身はそれほど大人じゃないけどさ、確かに。でさ、その続きって何?蜜柑をどうすんの?」 「ストーブにのせて焼くんです。そうして食べるのもよいものだという話を聞きまして」 「へぇ、楽しそうだな。俺もやっていいか?」 「もちろんです。さあ、お二人とも」 佐伯が差し出した籠から蜜柑をとって耀司と子どもはストーブの前に歩いていき、いかにも熱い天板の上にそっとのせた。その横から静かに佐伯の手がさらに二つ、蜜柑をのせた。 佐伯の分、そして誰よりも紫のために。 耀司は振り返ると黙って三人の様子を眺めている紫を見た。広いソファの上で膝を抱えたその姿は記憶の中にあるほっそりとした静寂そのものだった。 どのくらい焼いたら食べ頃なのか。 佐伯はじっくり待つ姿勢、耀司は実は気になってしかたがない、そして子どもはすぐにでもひっくり返して裏を見たい。三者三様の後姿が巻きストーブを囲んでテーブルからもってきた椅子に座っていた。誰も蜜柑を焼いた経験はなく、話を聞いてきた佐伯も具体的で詳細なことはほとんど聞かなかったらしい。 「なあ、焦げちまったらまずいよな、やっぱり」 呟く耀司の隣りで子どもが大きく首を縦に振る。 「でもまだのせたばかりですから」 穏やかに制する佐伯の声。 紫の唇に微笑が浮かんだ。それと同時にこの試みを失敗させたくないと言う感情を自分の心の中に見つけて苦笑した。まるで『過保護』のようだ。 紫が立って床の上を滑るように歩いていく姿に最初に気がついた佐伯が立ち上がった。 「ちょっと上に行ってPCをやるだけだ・・・どこかに焼いた蜜柑の食べ頃について情報が転がってるだろ」 途端に向けられた三組の希望と期待に満ちた目を。紫は視線を背中に感じながら自室に上った。 二階は広いワンフロアになっていた。ところどころを柱が貫いてアクセントになっている。天窓以外に窓はなく、吹き抜けに面している以外の三方の壁はすべて書棚になっている。淡い色の遮光カーテンでぐるりと囲まれた小さなスペース・・・それを見るたびに何かのモニュメントの除幕式を想像してしまう・・・にはベッドがあるが、そこ以外は完全にオープンな空間で、部屋の中央を大きくてシンプルなテーブルが占領し、その上にPCや周辺機器、読みかけの本などが置いてある。 紫はPCを作動させ外界との接点を回復した。 好きな時に繋ぎ、好きな時に完全に遮断することができる。それがとても楽で自由なことをここに住むようになってから知った紫はそのことをとても大切にしていた。 外皮が少しぷっくりと膨れて底が円形に焦げる程の状態が焼き蜜柑の食べ頃だという。 それを目指す男たちの熱気が室内を催眠状態に陥れているようで。紫は膝を抱えたまま肘掛に頭をのせた。外の風の音も暖房完備の部屋の中では眠りを誘う響きを持つ。ここでなら眠ってしまっても凍え死ぬことはないという安心感に包まれて。紫は前に住んでいた家でよく見かけた大きな犬の寝姿を思い出していた。腹を上に向けて四本の足を投げ出して深く眠っているその姿は『安心』と『無防備』を絵に描いたような姿で、その姿を見かけた者は誰もが足音をひそめて息を殺したものだ。今の紫はあそこまでは環境に心を許していない。けれど誰かの膝に頭をのせて・・・犬ならそのくらいの姿なのかもしれない。 「召し上がりますか?」 近くで聞こえた静かな声に目を開けると佐伯が蜜柑がのった皿を差し出していた。皮を剥いてある蜜柑はどことなくいつもよりも柔らかそうに見える。 「お前は食べたのか?」 「いえ、毒見はしておりません。先に紫様にと思いましたので」 「そうか」 手を伸ばすと佐伯の指が一房を引き剥がして紫に渡した。 口に含むと予想以上の温かさがあり、噛むと味わいに満ちた果汁が口の中に広がった。普段よりも濃厚に感じられるその熱さが喉を下りていった。 「甘いな」 「確かにいつもよりも味が濃い様な気がしますね。蜜柑というよりはジャムにも近いような」 ひとつの蜜柑からとった別々の房。 今、紫の味覚は佐伯と同じ甘さを伝えているはずだ。その『同じ』中にある差はどれほどのものだろう。紫は口の中の蜜柑を飲み込んで残り香を辿った。 2006.1.30 冷凍みかん、というのは今も列車の車内販売メニューにあるのでしょうか ちょっと気になってます |