冬籠り 5




 賭けに負けた時のバツゲームは『学校の朝の会のときに突然立ち上がって歌を歌う』だったのだという。それがこの子どもにとってどれほど苦痛で恥辱にまみれる最悪のものなのか。想像して余りあった。だから、子どもは持っていた携帯で焼き蜜柑を持った紫の手の写真を撮らせてもらってから佐伯に送られていった。
 吹雪が止んだ時にはとうに日は暮れていて、丸太の家の中は灯りが満ちていた。
紫と佐伯の両方が揃うまでは暗くなってもカーテンを引かない。いつの間にかできあがっていた不文律によって灯りは家の周囲まで赤々と光を溢れさせていた。

「待ってる間の準備まで完璧なんだね、やっぱり」

 蜜柑を焼いた香りがまだほのかに香る部屋の中で紫と耀司はソファに並んで座っていた。サイドテーブルにはまだ熱いコーヒーと紅茶、それに小さな籠に盛った胡桃が置かれている。パチン、と音を立てて硬い殻を割りながら耀司はコーヒーをじっくり味わった。

「紫サンが胡桃を割るの、覚えてる。あの人形はもうないの?」

 胡桃割り人形。
 その響きが人形の色鮮やかさと同時にそれを置いた広いダイニングテーブルの深い色合いと艶やかな表面まで心の中に蘇らせる。あの時、どうしてそういうことになったのかは覚えていない。けれど人形を見つめる小さな男の子の目がまん丸になっていたこと、相手のことを忘れたような上下の唇の間に呆けた陶酔による距離が出来ていたこと、紫が人形の後ろのレバーを動かすと胡桃が軋んで乾いた音をたてるのだがその音の前に男の子の喉が唾を飲み込んでいたことを思い出す。小学生の耀司と高校生の紫。月日の流れとともに耀司の口数が一方的に多くなってきた気がするが、それでも二人でただ一緒に呼吸しながら沈黙の静けさを楽しんでいた頃もあったのだ。
 あの人形は実際に胡桃を割ることはできるけれど、あの家ではその目的を取り上げられて失っていた存在だった。なぜ不意にあれを使いたくなったのだったか。もしかしたら幼い共犯者のこちらを何か眩しいものでもみるような眼差しに気持ちが高揚していたのだろうか。

 黙ったまま紅茶を飲む紫の姿から耀司は人形がどうなったかわかった気がした。そっか、と短く呟いて次の胡桃に手を伸ばした。
 紫の小さな動きにあわせてサラサラと流れ落ちる黒い髪。正反対の白い肌。顔の中で唯一彩られた唇。耀司にはそのどれもが彼がまだ子どもだった時からちっとも変わらない気がする。常に抑えた表情は変化に乏しいから人の目には大抵ひどくわかり難い人間だと思われる紫。けれど逆にいつもそばで紫を見ている人間にとってはほんの僅かな変化も手に取るようにわかるのかもしれない。例えば、佐伯なら。読心術や手品ように。耀司は多分、普通の人と佐伯の真ん中くらいに位置している。わかりそうでわからない。でも何となくわかる時がある。この状態は心地よさと刺激の両方を備えていて彼にはなかなか面白い。

「紫サンさ、佐伯さんと恋人になってないの?関わり方には変化なし?」

 耀司が投げた言葉の石は紫の表面にさざ波ひとつたてずに吸い込まれた。

「佐伯は佐伯だ。おかしな疑問だな」

 耀司は紫と佐伯の出会いを知らない。彼が紫を知った時にはすでに佐伯は紫のそばにいた。紫の家は一族の中でそういうしきたりを頑なに守っているのだと大人たちはいかにも感心したような口調で言っていたが、そこにある感情がそれだけではないことは耀司が年齢を重ねるに連れて自然とわかった。耀司は子どもの頃からずっと二人に憧れを持っていた。常に傍らにあることが自然で平穏な二人。ないものねだりとわかったあとにも時にひどく焦がれる瞬間があった。
 紫が『他人』と結婚した時にはひどく驚いたが、それに続いた離婚は納得すると言うよりも当たり前のことのように感じた。

「おかしいかな。普通さ、大人の男女が二人で一緒に暮らしてたら、そういう風な想像をする人のほうが圧倒的に多いよ。俺にはその『佐伯は佐伯だ』も何となくわかりはするけどさ。でも紫サン、それって実はすげぇ少数派」

「数にこだわるのはあんたらしくない。知りたいことを遠まわしに飾り立ててカモフラージュする必要もないし、似合わない」

「ああ、やっぱり?」

 紫の反応が実は耀司には嬉しい。紫には昔から本能と言う名のセンサーがついているように思えるのだが、そのセンサーで紫は彼女の周りのある程度の距離の中に許容する人間とそうではない人間の区別をしているのだ。紫の口数と言葉の内容でその分別の結果がわかる。耀司はまだ許容範囲に入れてもらっているらしかった。

「紫サンさ・・・・性欲、ある?俺、女じゃないから女の人のそういう仕組みは良く分からないんだけどさ。でも、そういうのが男だけの特権と言うか業じゃないってことはわかるんだ」

「・・・少なくともあんたと肌を合わせたいとは思わない。いったん快楽を知ればそれを深めたくなるとか追求したくなるのは性別に関係なく同じだと思うが、個人差はあるだろう。わたしは興味がない。でも・・・なぜだ?」

「ここに来る前に寄った町でさ、すごく優しくしてくれた女の人がいたんだ。その人が言ったんだ。寂しい人がそばにいるとすぐにわかるって。でもその寂しいが気持ちの中のことなのか身体なのかはわからないって。男はすることが終わったらさっぱりしてすっきりって感じがいつだってあるけどさ、女の人はちょっと違ってそこまではっきり身体が切り替わらないから実は男よりももっと欲張りかもしれないって。そばにいて抱きしめて欲しい時にだけすぐそばに磁石みたいに心と身体を吸い寄せてくれる男の人がいて欲しいって。それを聞いたらなぜだか紫サンのことを思い出したんだ。佐伯さんは男の俺から見ても十分その磁石ってやつを持ってると思うし、紫サンは静かなくせに時々衝動的だから。それにどうせそばにいるならあっためあったっていいかな、とかさ・・・」

「・・・中途半端に大人なスナフキンだな」

 耀司の長台詞が終わると紫はぽつりと呟いた。
 マントを羽織って気が向くままにいろいろな場所を歩いている耀司のことをある物語の中の紫が気に入っている登場人物の名前で呼ぶようになったのはいつだっただろう。現代のスナフキンは冬はスノーモービルを使って移動するらしい。紫は小さく笑った。耀司の顔のつくりの中で一番人目をひく大きな瞳。それもそのキャラクターの印象に重なるものがあった。

「・・・佐伯にはそういう質問をして困らせるな。いいな」

 近づいてくるエンジンの音に気がついた二人は笑みを含んだ視線を交わした。
 その笑みの中にある意味はきっとかなり異なっている。そのことを二人とも感受していた。
 


2006.1.31

スナフキンが好きです