冬籠り 6




「今日は不思議とお客様が多い日で・・・」

 扉が開くと同時に雪と一緒に風に乗って吹き込んできた佐伯の声を。
 紫は顔を上げて声が聞こえてきた方向を注視した。耀司は何となく面白がりながら紫の無表情を観察した。
 『お客様』よりも先に中に入ってきた佐伯の姿に紫は小さく首を傾げた。いつもならあり得ないこの行動の意味は佐伯流の穏やかな予告、ワンクッションだろうか。佐伯が紫に顔を向けて微笑んだので、紫はそれを確信した。

「偶然佐伯さんに会えたのはものすごく幸運でしたよ」

 佐伯の後ろについてきて扉を閉めた人影が発した声を聞いた紫は一瞬目を閉じた後でちらりと耀司に目を向けた。
 何?俺がここにいることの方が気になる相手ってわけ?
 耀司が意識して最上級の笑顔を見せると紫は小さくため息をついた。
 耀司は好奇心もあらわに佐伯の後ろに注目した。背の高さは佐伯とほとんど変わらない男がそこにいた。いかにも上質のコートに包まれてきっちりとした分け目が見える髪形は清潔感そのもの。さらに整った眉毛の下に少々異国風の瞳がおさまり、鼻筋、頬骨、それから笑みを浮かべた唇にいたる。
 コートを脱いで佐伯に渡す男の手馴れた様子にはいかにも大人という雰囲気が漂っていたが多分年齢的には紫とそう違いはないだろう。耀司の予想通りの身体にぴったりと合ったスーツ姿で男はゆっくりと頭を動かして紫を視界に入れた。男を見上げる紫の顔には驚きはなく、代わりに疑問の色が浮かんでいた。

「・・・バレンタイン?」

 紫が呟くと男は大きく頷いて手に持っていた箱を差し出した。平たくて上品な包装紙とリボンで飾られたそれはどう見ても指輪の類ではなさそうだ。耀司はこぼれる微笑をそのままに場の続きを待った。

「このくらい遠く離れれば継人さんも手渡しを諦めてくださると思ったのに」

 丁寧な言葉遣いでありながら紫の声には呆れているぞ、という響きがあった。

 継人

 どこか聞き覚えがある名前に脳味噌にフル活動を命じた耀司はコーヒーポットをのせたトレイを運んできた佐伯を見た。佐伯はごく自然にコーヒーを注いだカップにティースプーンに半分ほどの砂糖を加えて静かにかきまぜ、男が座るはずの場所に置いた。ということは佐伯はこの男を良く知っているということだ。知り合いというよりはもう少し長い時間をともにしたことがあるということ・・・多分紫も一緒に。そこまで考えた耀司はこの『継人』の正体に思い当たって思わずもう一度まじまじと男の顔を見た。
 何もかも上等なものに囲まれている生活を当たり前としている男。
 望んだものを手に入れ続けてきた男。
 それが一見こんなに物静かな男だとは。
 耀司の視線の先で紫が結婚と離婚をした相手がニッコリと微笑んだ。面白がっている耀司の様子を楽しんでいるその様子はさらに耀司の興味をかきたてた。




 フォンデュ鍋から漂うチーズの複雑な香りを確かめるように目を閉じていた継人は満足そうに頷いた。

「とても美味そうだ。パンは佐伯さんの手焼きでしょう?」

 静かな微笑を浮かべながら佐伯は全員のグラスにワインを満たした。

「ビールは・・・ないよね。紫サン、確か嫌いだったし」

 耀司の声に紫は小さく笑った。

「ないわけでもないが、フォンデュを腹いっぱい食べてビールを浴びるほど飲んで死んでしまった男の話を聞いたことがある。料理と酒には相性があるということだ。試してみるか?」

「やめとく。そんな怖いモンだとは思ってなかったし」

「耀司様にはさっぱりと軽いワインをお持ちしましょう」

 新しいグラスとボトルを持ってきた佐伯が席につくと耀司は感謝代わりに頷いた。
 そういえば佐伯と一緒のテーブルで食事をするのは初めてのことだと気がついた。彼が子どもの頃から紫の家の食事に招かれた時には、いや、お茶と菓子をふるまわれた時にも佐伯はいつも給仕に徹していた。その事情が変わったのはこの丸太小屋に移ってからなのだろうか。ふと視線を動かした耀司は継人の表情から彼も同じことを考えているのではないかと思った。それでも継人はうすく微笑してそれについては何も言葉にしなかったから、耀司も何となく聞きそびれてしまった。
 さりげなく食卓を囲む全員が満ち足りているかどうかを見守る佐伯の目。
 そんな佐伯がちゃんと食べて飲んでいるか確かめるようにたまに動く紫の視線。
 耀司は不意に笑い出したくなった。こんなに面白い食事は初めてだった。それぞれの想いが全然見えないのにそこには明るい光のようなエネルギーが溢れていた。雪の中の丸太小屋に今日この全員が集まったことには多分意味などないけれど。耀司は満足感を覚えていた。




 耀司と継人は2階の紫のフロアに布団を並べて寝ることになった。
 佐伯から借りたパジャマがぴったりの継人と袖とズボンの裾を二折した耀司は互いに相手を眺めて笑った。

「好奇心で一杯、という感じだね、君は」

「で、継人さんは俺のその好奇心をそんなに迷惑だと思ってないでしょ?」

「確かに。紫さんのことだからきっと誰にもちゃんと事情を話していないんじゃないかとも思うし、それなら一人くらいは彼女を守る側の人間がいてくれた方がいいし。紫さん、全部自分が決めて丸ごとが自分のせいだって言ってるんだろう?」

「ていうか、それすら言ってないよ。結婚式は、まあ、あんな感じに普通に盛大にやったよね。それから新居に引っ越して、こっちが紫サンの新しい苗字に慣れる前に『離婚しました』だもん。もうね、いっさいノーコメント。結婚前と変わったことといったらあの大きな実家には戻らなかったことだけ。マンションをいくつか転々としてさ、で、俺がここのことを知ったのは先月。こっちにきて半年以上たってたなんてさ」

 継人は耀司が言葉を切った後もしばらく黙っていた。やがて口を開いた時にはその顔から陽気な色はどこかに消えていた。

「それなら・・・僕が詳しく話すのはやめておいた方がいいみたいだね。ただ、耀司君、ひとつだけ覚えておいて欲しいんだ。僕は紫さんに救われた。そして紫さんを・・・救うことはできなかったかもしれないけれどほんの少しだけ自由にしてあげられた。それが僕たちの結婚と離婚だ。これは相手が紫さんだったから・・・そして佐伯さんだったから可能だったことなんだ。だからいつも感謝してるしできればいつまでも細く縁を繋いでいたいと思うよ」

 事情を知らないままにされることが耀司には少し悔しかった。
 そして気になることがあった。

「・・・紫サンと、寝た?」

 わざと乱暴に問いかけると継人は微笑を返した。

「ああ。そういう意味ではちゃんとした結婚だよ。あの時にはお互いにそれが必要だとわかっていたし。ただそれは・・・・言ってしまっていいのかどうかわからないけど・・・ただ一度のことだったけどね。紫さんはとても綺麗だった。綺麗でとても深い女性だった」

 そんな風に答えていいのだろうか。穏やかに、無防備に。
 耀司が片方の眉を上げると継人の瞳に陽気さが戻った。
 君も紫さんの味方だろう?・・・そう言われた気がした。そしてその続きを避けるように耀司が視線を落とすと笑い声が響いた。

「わかったよ。僕からは質問はしない」

 紫の元結婚相手はなかなか人間味のある男だった。それを知った耀司は安心したような、逆に何か更に抵抗したいような複雑な気分になっていた。
 ゴロリと布団の上に寝転がると天窓から星が見えた。この土地ではこんな風に当たり前に星が見えるのか。それに導かれるものがいっさい迷う恐れがないほどにはっきりと。
 耀司はこの星の下で過ごす静かな時間のことを想った。




「今日は一体どうなっているんだろうな」

 紫が呟くとテーブルを挟んで向かい合っていた佐伯が新聞から顔を上げて微笑んだ。

「こういう土地に住んでしまうと当たり前でもあり生活の妨げにもなる雪は・・・お二人にとっては珍しくて魅力があるものでしょうから」

「・・・雪のせいか?」

 紫の唇が曲線を描いた。
 雪の魅力はまだ紫にも有効で、ひとふりした後の朝の新雪の滑らかさと眩しさには静かな美を感じるのだった。あの子どもも耀司も継人も、雪ゆえに今日この場所に現れたと考えれば心は軽い。

「このままずっと冬眠していようと思っていたんだけどな」

 余計なことを考えるのをやめて。ただ佐伯がここにいることだけを意識の片隅に置いて。心を満たす創作物の世界に遊びながら。

「吹雪の中でも春はやはり近づいてくるものですね」

 佐伯は畳んだ新聞を置くと紫のグラスにワインを注いだ。

「・・・酔いたくないんだ」

 小声で言った紫の顔に佐伯はふと幼い頃の面影を見た。気がついたときにはいつのまにか感情を乱したりあらわに表現することを嫌うようになっていた少女。彼が青年期特有の諸々に揉まれながら出口を求めて彷徨っていた間に一人で一段階段をのぼっていた紫。

「大丈夫です、眠くなられたら部屋にお連れしますから」

 佐伯は彼の部屋のベッドの寝具をすべて洗濯した新しいものに換えて心地よく眠れるように整えておいた。彼自身はソファで毛布にくるまれば朝まで番をつとめることができるはずだ。これまでずっとそうしてきたように。

「お前も飲むなら・・・もう少しだけ」

 不器用な紫の言動を『甘え』ととらえていいのか確信できなかった昔。今もそれは変わってはいなかったがそれでも以前よりは紫を受け止めることができるようになったように思う。佐伯は自分のグラスにワインを足し、黙ってそれを眺めていた紫を見た。
 言葉のない会話が二人の間を行って戻った。
 二人の口元に浮かんだ淡い微笑はどちらが先かわからないほどとてもよく似ていた。
 


2006.2.12

フォンデュ食べたいです