冬籠り 7




 冬の朝は明るい。朝だけではない。昼も黄昏時も光が存在している限り雪の白さがそれを反射して空気に拡散するからだ。それは不足気味の日照時間の補給のようにも思え北国の冬の印象をやわらげる効果もあるように思える。
 防寒のために厚いものを下げているカーテンは遮光機能を付随されたものではないので外の明るさの室内への侵入を想像以上に許す。目を開けた紫は光の様子の違いに一瞬自分がいる場所を考えた。この二年間で住所を数回変えている。でも今の感じはその中のどこにもあてはまらない。
 何か物語の中で目覚めてしまったような錯覚の中で紫の目は見慣れたカーテンの柄、丸太の壁、シンプルなデザインの机、机の上に横たわっているパイプ、と順番に確認していった。そうだ、ここは佐伯の部屋だ。酔いが心地よい程度に身体全体に回った頃にゆっくり歩いてこの部屋に入った。そっと横たわったベッドは清潔な匂いに満ちていた。子どもの頃に親戚の家に泊まった夜を思い出して紫は苦笑しながら眠りについた。
 あの頃、あの従姉弟たちが紫を自宅に引き止めたのは恐らく佐伯を帰らせたくなかったからなのだ。物静かな佐伯は積極的に彼への好意を見せる子どもたちにどこか戸惑いながら穏やかに楽しそうに相手をしていた。そんな時に紫は実は従姉弟たちの言動を一生懸命頭の中に複写していた。子ども同士の感覚、好意を持っている大人への甘え方、世界の構築の仕方。従姉弟たちの言動は彼らの中の気持ちをあまりに剥き出しに無防備に見せている気がして気がつけば紫はいつも彼らのために緊張していた。
 いつも佐伯は最後に必ず紫のところに戻ってきた。叔母から声が掛かって食事やおやつに行くために子ども部屋を出る時、風呂の後に長い髪を乾かす時、夜寝るために子ども部屋に臨時に敷かれた布団に入る時。それを当たり前のことだと育てられたはずの紫はなぜかそのことにその度にいつも心の中で感謝を感じていた。そしてその感謝は不思議なことに佐伯にも伝わっているように感じられた。

 紫は時計を見た。7時半。もう佐伯は朝食の準備を終えているだろう。
 その時紫は外に雪を踏みしめる足音を聞いた。それは次の瞬間には部屋のドアの向こうに言葉のひとつひとつは聞き取れない人声に変わっていた。
 紫はもう一度時計を見た。新聞の配達が遅れでもしたのだろうか。いや、夢の中で確かにポストのドアを開け閉めする音を聞いた気がした。では一体。

 冷えた空気の中で手早く着替えると紫は静かにドアを開けた。佐伯の部屋のドアは玄関スペースのすぐ横にある。紫は訪問者の大きく見開かれた目を凝視しながら部屋を出てドアを閉めた。くるくると渦を巻くようなショートヘアー。豊かな色に飾られた顔、ぴったりと身体にはりついた薄手のセーターに形のよい足を惜しげもなく見せるミニスカート。滑らかなタイツに細工が凝ったブーツ。目の前の姿が放っているエネルギーを感じながら紫はこの何から何まで満たされているように見える娘を見た。既視感と記憶の断片がひとつに結びつこうとしていた。娘の顔にある豊かな表情、愛らしい唇の下のくぼみが示している隠し切れないある感情の存在。そう・・・この娘は確かに怒っているのだ。でもそれは直接紫に向けるべきではないと考えているので多分必死で感情をコントロールしているのだろう。
 何から何まで愛らしい娘。2年前、3年前もそうだった。

「・・・あなたのところに最初に行って、それから私、というのがちょっと遠すぎたのね。こんにちは、玲子さん」

 紫は佐伯がその場に見あたらないことから2階に上がったのだろうと思った。

「本当に随分遠かった。おかげで怒りを半分くらいどっかに落としてきちゃった。確かにこれならあれから日帰りは無理ね。こんにちは、紫さん。顔見て思ったわ、来て正解。実はすごく会いたかったみたい」

 玲子の瞳に浮かぶ陽気さが紫には懐かしく感じられた。最後にこの瞳を見たときはこの玲子の外見的な優美さはまだ蕾の状態だった。大人になりかかっていた玲子にはそのときでも情熱と真摯さが溢れていた。紫はこの早く大人になることを自ら強く望んでいた娘に好意を感じていた。

「街から歩いて来た?」

「そう。遭難しそうになったら煙突から出てる煙を目印に進めって言われたわ。嬉しい、コーヒーのいい匂いがする」

 玲子の言葉は紫のまわりの空気を日常に戻した。コーヒーの香りの陰に紅茶の匂いも拾った紫は小さく微笑し玲子をソファに座らせた。

「佐伯さん、やっぱり変わらず素敵なままね。きっと今継人さんににっこりしながら警報を出してるわ」

 自分と血のつながりのない人間は誰でも無条件に佐伯に魅力を感じてそれを表現したくなるらしい。
 玲子にコーヒーを注いだ方がいいだろうかと迷いながら紫がテーブルに近づいた時、階段から少々リズムが乱れた足音が聞こえてきた。

「玲子・・・!一人で来たのか?歩いて?なんて危ないことを・・・」

 一部の隙もなく身支度を整えた継人の顔に浮かぶ抑えられた動揺の気配を紫と玲子は黙って感じ取った。玲子の唇には微笑が浮かび、紫はその時の娘の顔をとても美しいと思った。同時に継人の顔が普段からは想像できないくらいに生身の人間らしく見えた。

「すごいすごい。紫サンと佐伯さん、どっかの秘境に住んでるみたいだね」

「確かに歩いていらっしゃるにはちょっと軽装でしたが」

 継人に続いて姿を見せた耀司と佐伯は揃って苦笑を浮かべている。

「そうなの。途中で足がもつれちゃって何度か転んだわ。改めて、こんにちは、佐伯さん。そちらの方は・・・?」

 紫と耀司と佐伯が説明しようと同時に口を開きかけた時、階段の中央から一気に駆け下りた継人が玲子の身体を腕の中に抱きこんだ。背の高い継人の胸に包まれて玲子の顔が見えなくなってしまったので三人は言葉の行く先を失って口を閉じた。

「大人のああいうのって許せるか許せないかはっきり分かれるけどさ、この人たちは、まあ、いい感じだね」

 のんびり呟きながらカップにコーヒーを注ごうとした耀司の手から佐伯がそっとポットを奪った。

「新しく淹れてきましょう。冷めてしまいましたから」

「いや、いいよ、勿体無いさ。あ、じゃあさ、ミルクをあっためてくれる?カフェオレにするから」

 佐伯は微笑んでキッチンに姿を消した。

「でさ、盛り上がってる二人は恋人同士なの?玲子さんて俺より若そうだけど」

「ずっとお互いが宝物だった。今は婚約者同士だ」

 紫の答えに耀司の片方の眉毛が跳ね上がった。

「・・・ずっと?」

「そう。ずっとだ」

 耀司には紫の表情がひどく穏やかでやわらかく見えた。それの意味を考えようとした時、佐伯が戻ってきた。それと同時に肩を怒らせた玲子が継人の腕の中から脱出して小走りにやってきた。

「紫さん、ねえ、聞いて」

 玲子の後を追うような継人の声が続いた。

「だから、ちゃんと玲子のところに最初に行ってそれから紫さんのところに・・・って行っただろう。予想よりもいろいろ時間がかかって戻れなくなったのは悪かったが、ちゃんとすぐに帰ろうと思っていたし玲子がこんな風にこんなところまで来なくても・・・」

 玲子は口を尖らせた。

「うわ、似合う。キュートを絵に描いた感じ」

 耀司の呟きに思わず曲線になりそうな唇をこらえたまま玲子は訴えるように紫を見た。それから継人に視線を戻した。
 紫は小さくため息をついた。

「・・・玲子さんのところを最後にすればよかったんだ。大事なのは最後に自分のところに来るかどうか、なんだから」

 玲子は大きく頷いて紫に抱きついた。

「ほら、やっぱり紫さんはわかってくれる。わかってくれないのは継人さんだけよ、きっと」

「いや、でも・・・・やっぱり一番最初に大切な人のところへって普通は思うよ。取引先だってそうだろう?」

「オリンピックの表彰式は金メダルが最後よ!」

 紫は思わずこぼれた笑みを引っ込めながらそっと玲子の腕をほどいた。
 耀司は声を出して笑っている。
 佐伯は三人分のカフェオレをトレーにのせてソファに運んだ。

「すぐに朝食にしますから。空腹な状態はいろいろとよくありませんね」

 途端に恥じ入った二人に耀司が陽気に自己紹介するのにまかせ、紫は空のトレーを持った佐伯の後ろについて歩いて行った。

「お湯を沸かしなおしますからちょっと紅茶はお待たせしてしまいます」

「うん・・・それでいい」

 紫の返事に佐伯は短い視線を送った。

「・・・何だかおかしいな、昨日からずっと」

「昨日は雪のせいにしましたから、今度は春のせいにするのがいいかもしれませんね」

 窓の外には青空が広がりはじめていた。

「ほんと、おかしいな・・・何だかほっとしてるんだ」

 俯き加減の頭を何度手で撫ぜてやりたいと思ったことか。
 佐伯はトレーを持つ手を下ろした。この家に暮らすようになってから以前よりも追憶めいたものが浮かぶようになったように思えた。年齢のせいなのかもしれないがもしかしたら場所の影響なのかもしれないと思った。

「一つずつ溶けはじめるんですね・・・時期が来たら」

 心にそっと触れてくる佐伯の声に紫は顔を上げずに頷いた。
 最後にいつも戻ってきた佐伯。子どもの頃にこっそり溜めていた甘やかな安心感を思い出していた。
 


2006.2.24

朝食は焼きたてのマフィンがいいな