冬籠り 8




「あ、すごくいい匂い」
「旨そう。朝からかなり幸せだね、コレは」

 籠に盛ったマフィンと根菜のスープの器を並べた佐伯は玲子と耀司に小さく頭を下げた。
 そういえば、と紫は思った。彼女は佐伯の料理に対して「美味しい」と声を出して伝えたことがあっただろうか。彼女自身は伝えたつもりになっていたこともあったかもしれないが、目の前の二人の反応に比べるとそれは無に等しいものだった気がした。
 佐伯は今度は一緒に席につかなかった。普段二人用として使っているテーブルは大人五人が座ると少々窮屈になるだろう。立ったまま給仕に徹している佐伯に違和感を感じる者はどうやら自分以外にはいないらしい。紫にとっても以前はそれが当たり前だったのだ。当たり前というのは時間しだいでどうにでもなるらしい。
 紫は面取りされた人参を口に含みやわらかさと味を感じる暇がないように飲み込んだ。子どもの頃からずっと苦手であり続けている人参の味わい。この当たり前もいつかなくなるときが来るだろうか。それでもその独特の甘みが苦手なほど一緒に口に含んだスープの深い味わいが冴える気がして紫がほとんど人にはわからない程度の微笑を浮かべると、佐伯が紫の紅茶のカップを静かに満たした。
 紫が人参を苦手なことを知っている佐伯。
 それでも決して紫の分として盛り付ける数は減らさないで通してきた佐伯。
 そういえば、一度だけ。
 思い出すとふと予感がした。そして次の瞬間にあり得ないと首を振った。

「何?どうしたの?紫サン」

「いや。まさかな、と思っただけだ」

 苦笑した紫よりもわずかに早く佐伯の視線が窓の外に向いた。
 同時に全員の耳に入ったのは近づいてくる間違いようのないエンジン音だった。

「モービル?」

 耀司が呟いた時、玲子が思い出したようにああ、と声を出した。

「スノーモービルを借りられるところがあるかって訊いてる人がいた・・・男の人。背が高くて、そうねぇ・・・佐伯さんくらい。細身の革のロングコート着ててね、多分飛行機の中でも一緒だったかもしれない」

 玲子が話している間も音はどんどん近づいてくる。
 思わず紫が顔を上げた時、ちょうど振り向いた佐伯と視線が出会った。

「佐伯・・・」

 次に何を言おうと思ったのかわからないまま名を呼んだ紫の顔を見た佐伯は微笑した。その笑みは紫の口を閉ざさせる効果を持っていた。

「本当にお客様が続きますね」

 予想通り小屋のすぐ脇でエンジン音は止まり、佐伯は来訪者を迎えるために歩いて行って扉を開けた。清冽な光と一緒に冷たい空気が流れ込んだ。

「・・・映一」

 低くてやわらかい声を聞いたのはその光景を見る前だったろうか、それとも後だっただろうか。気がついたときには佐伯以外の全員が目を見張っていた。
 戸口に立ちはだかった黒い人影はただまっすぐに一歩進んで出迎えた佐伯の身体に腕を回した。締め付けすぎずゆるやかに、けれど両腕で作られた輪は閉じている。ほとんど同じ身長の男二人。サングラスに隠れた表情のまま唇に笑みを浮かべて抱く男。驚きに最初戸惑いを浮かべた顔に今は何か強い感情を浮かべながら男の腕の中にいる佐伯。

「ああ、やっぱり一緒だったんだ、お嬢さん。相変わらずな雰囲気で拍子抜けしちまうな」

 人生に何度か不思議な予感が当たることがあるとすれば、これは多分生まれて二度目の的中だ。紫はウェーブがかった男の長髪を眺めながら記憶を探っていた。この男はこんな声だったか。背の高さは覚えている。どこか気だるい口調も同じな気がする。気だるいのにどこか熱い。そう、前に聞いたときはもっと熱さを感じたのだ。

「・・・そういえばあの時もお名前をうかがってはいないけれど。朝食を一緒にいかがですか?」

 男の唇に賞賛の笑みが浮かんだ。

「いただこう。映一の料理はとにかく美味いからな」

 佐伯 映一

 三人の人間が佐伯のフルネームを初めて知った。彼らが長年知らないままできた佐伯の名を呼び捨てにするこの男は・・・。
 男が腕をほどいたのか佐伯が抜け出したのか。見ればいつもの穏やかな微笑を浮かべた佐伯が男のコートを預かろうとしていた。

「この方は氷見さんとおっしゃいます。僕の古い友人・・・というか、先輩ですね」

「氷見・・・というのはもしかしたら画家の?」

 継人が目を細めて氷見の顔を見た。

「ああ、そういう人もいます。俺は『無職』だと思ってるんだけど」

「え、継人さん、知ってるの?」

「前に雑誌で記事と写真を一度読んだだけだけど」

「そういう記事はあまり信じないで。全部が気の向くままだから」

 ソファにどっかりと座り込んで足を前に投げ出す動作にどことなく優雅さが隠れている男。
 紫は氷見が朝食があっというまに整えられて目の前に並べられる様子を嬉しそうに眺めるのを見た。思えばこの男とは一度しか会ったことはなかった。受話器のむこうの声は何度か聞いた。紫から接点を求めたことはなかった。佐伯を待ちながら数度心の中で電話を思い浮かべたことはあったかもしれない。でも、紫はただ待っていた。
 最後にどこに戻るのか。
 それを決めることが出来るのは佐伯自身だけだったから。
 佐伯の心が何を想い、どう動いたのかをわかる術などどこにもなかったから。

「そういう顔を見てると・・・面白いくらい変わってないよね、お嬢さん。もしかしたらあの時から俺はあんたの絵を描きたかったのかもしれないな。あの時は絶対に認める気になれなかったけど」

「なんだかすごく意味が深そうないい方」

 耀司がニッコリ笑うと氷見も白い歯を見せた。

「だってさ、俺は結局このお嬢さんのおかげで失恋ってのを味わったんだから。それも恐らく生まれて初めて」

「ええと・・・つまり・・・それってやっぱり・・・?」

 耀司は自分の中の好奇心を恨んだ。好奇心の強い順に口にしづらい質問をしなくちゃならないはめになる。耀司が心の中で自分に文句を言っているとカップにコーヒーが満たされた。

「というより、僕が一方的に氷見さんに迷惑をかけたんです。随分昔のことになりますが・・・まだ学生でしたから」

 それは佐伯が何歳、紫が何歳の時で・・・
 声に出さない質問を心の中で呟きながら耀司は紫を見た。紫の瞳は深く沈んで表情を消していた。見れば継人と玲子は氷見と佐伯、そして紫の顔を順番にそっとうかがっている。
 雪の中訪れた珍客中の珍客。
 氷見は何を想い、どんな役割を自分に与えたのだろう。
 いつの間にか視線が氷見に集まる中で紫はただ佐伯の顔を見ていた。
 それに気がついた佐伯は唇の端を小さく上げた。
 


2006.4.10

放置しすぎて勘が戻りません(汗)
後日修正ありそうです
リハビリ開始〜