冬籠り 9




 朝食が終わると継人と玲子は早々に戻らなければならないと言った。どちらの顔にもこの場を去りがたく思っているらしい気配があって紫は心の中で苦笑した。確かにこれだけの登場人物が揃いながら状況が何もわからないままの状態はある意味生殺しだろう、と人事のように思う。
 佐伯が継人を、耀司が玲子をそれぞれスノーモービルに乗せて町まで送り届けることになった。連れ立って出て行く二組のうち、若い方のモービル組がメールアドレスをひそかに急いで交換している様子が面白かった。これからの後日談を聞かせてくれる相手、語ることができる相手を互いに見つけたということだ。
 しかし。
 紫はちらりとソファに座った氷見に視線を向けた。短時間とはいえこの男と二人きりになるとは予想していなかった。この男にもう一度会ったことが、この男が紫の生活の場所に自分からやってきたこと自体が予想を超えている。まだ子どもだったあの時から変わらない警戒感がじわじわと身体を満たす。

「怖がってるわけじゃないよな?」

 氷見は面白がるように微笑しながら細く煙を吐いた。灰皿がのっていないテーブルを。同時に視線を落とした二人は再び顔を上げて互いを眺めた。

「灰皿を出すのは映一の役目ってことか?」

「そういうわけでもないです」

 気配なく立ち上がって棚に手を伸ばした紫の全身を氷見の鋭利な視線が探った。サラサラと音をたてそうな長い黒髪。透明な白い肌。ほっそりとした肢体。それを包む黒づくめの衣類。過ぎたはずの月日を越えて簡単にあの日の制服姿を思い出させる静かな空気。

「なるほど。変わってないんだ、あんたは。そして映一も」

 灰皿を受け取るために差し出された形の良い大きな手が外見ほどには擦れているわけでもない氷見の内側を瞬間的に表した気がした。紫は座ると真っ直ぐに氷見の瞳を見た。
 変わったと思った。佐伯が変わったと、変わろうとしていると思ったから紫はひとつの道に一人で進んでみた。あの時佐伯も紫が変わろうとしていると思ったかもしれない。けれど。

「試してみたことはありますが」

 氷見は声を出して笑った。

「やっぱりそんなに平気なわけじゃなかったんだ。そこのところをずっと俺は考えさせられてきたんだ。あんたは映一にはずっとそのままで見えていたらしいから。・・・そうやってお互いに一緒にいてさ・・・、『余計なこと』を考えたりしないのか?」

 紫は思わず小さく微笑した。耀司が同じようなことを氷見に比べるとかなりストレートな表現で尋ねてきたことを思い出していた。こうして見えてくる氷見の育ちのよさの気配をあの時の紫はここまでは気がつかなかった。いくらなんでも少しは変わったんだという証拠かもしれない。

「佐伯は佐伯だ、とさっきいた男の子に言ったばかりです」

「そうなのか。おんなじことを気にしてたわけだ。・・・ま、いいんじゃないか?性愛っていうのは衝動が続く限りの通い合いだとわかってる年だし。人によって形もやり方も違ってくるもんだし。・・・何だか安心していいんだか悔しがっちまえばいいのかわからんな」

 立ち上がった氷見は紫に歩み寄り無遠慮な手で髪に触れた。それは思いがけず静かで柔らかい接触だった。

「あの時は少しは恨んだか?・・・あんたはちっとも驚いていない感じだったが」

「人が同性に惹かれる様子を見るのは初めてではありませんでしたから。それを悪いものだとも思っていなかったし。佐伯が決めたことだったから」

 そうだ。紫が見たところの平常を保っていられたのはそれが佐伯が望んだことだと思ったからだ。そして心の内を悟られてはいけないと強く自分に刻み込んだ。それは想像するよりも楽だったのかもしれない。とっくに慣れている己への戒めだったから。
 氷見はかがんで紫の顔を上向けた。二人は間近で見る互いの瞳の中に一緒に見入った。

「逃げないでくれよ」

 エンジンの音が近づいてくるのが聞こえていた。
 氷見はまっすぐに顔を下ろして唇を紫のそれに重ねた。煙草の香りを感じながら紫はただじっと氷見の瞳を見ていた。やがて顔を離しながら紫の頬に触れた氷見の手はまるで愛撫のように輪郭をなぞってから距離をとった。

「悪いがあとは返したくても方法がない。絶対にやっちゃいけないやり方以外にはな」

 氷見の吸い込むような黒い瞳を紫は深く覗き込んだ。

「あなたは・・・どうしてここへ?」

 煙草を咥えた氷見はどこかホッとしたように笑った。

「絵を描きに。ここのとこやけに思い出すあんたのな」

 その時、足音が聞こえて扉が開いた。
 


2006.4.29

書きたいことがうまく書けずに悶死