序章



 あたたかい闇の中で身体を丸めると、少女の心の中のひとつひとつが次第に昇華して幽かになる感じがした。
 密閉された空間のその果てがどこまでも広がり始める。
 西暦、という言葉が使われていた終わりの年。
 最後に記憶に刻まれた景色は眩しくて青い空だった。



『もう目を覚ましてもいいかもしれない』

 少女の頭の中にレイの声が響いた。
 レイ
 れ、い
 R・e・I
 記憶に浮かび上がったこのことの意味は何だろう。
 やわらかな声。声・・・・・・?

 少女が目を開けた時、空間にはまぶしい光が満ちていた。思わずそれを遮ろうと手を動かすと、腕全体の反応が遅いように思えた。

『慌てないで。筋肉が驚いているだけだよ』

 瞳が明るさに慣れ始めると、少女はゆっくりと上体を起こした。丸みを帯びたその空間のどこもかしこも色が白かったので、どこが境界とも区別がつかない。

「白・・・・・」

 少女の口からこぼれた言葉は、宙をゆっくりと拡散した。

『そう、ここは何もかもが白い。白は、色の名前だね』

「いろ・・・・・」

 少女は自分の手を眺めた。内側を見ているとまた頭の中に白という言葉が浮かんだ。けれど、手の色はこの場所の色と違う。それでも白という印象が変わらない。白はいくつもあっていいものなのだろうか。その白い掌に部分的にあたたかな色があった。何本か線もあった。

『指先の模様は指紋といって、長いこと人はそれで自分たちを区別していたんだ。どこかにルリの記録もきっとあったよ』

 記憶が揺さぶられた。
 二つの音が心に届いて沁みていく。

「ル、リ・・・・・?」

 しばらく間があった。
 レイが事態を把握して言葉を決めている時間だとわかった。

『君の名前だよ、ルリ。名前というのは個体を認識する一つの手段だ。僕にレイという名が与えられたように』

 レイというのがこの声の名前だったのだ。
 そして自分の名前がルリなのだ。
 それを認めたとき、ルリの心の中になにか気持ちが生まれた。
 《安心感》
 そういう名前の感情だったはすだと思った。しかし、この名前は心を不思議とざわめかせる響きを持っていた。

『安心したね?これで君は僕を呼ぶことが出来るし、僕が君を呼んだらわかってもらえる』

「呼ぶ?」

『互いを認識する一つの手段だから』

「でも・・・・・」

 姿が見えないレイが近くに存在していることは、ルリにはわかっていた。レイにもルリがここにいることは当然わかっている。
 それだけでは、いけないのだろうか。

『久しぶりに温かいものを食べてみるかい?すぐにできるよ』

「食べる・・・・・」

 これも安心の元になる言葉だとルリは思った。具体的な動作は浮かんでこなかったけれど、何か手を使うことだともわかった。
 不意に眩暈がして、ルリは目を閉じた。

『長い時間が過ぎていったことが影響しているんだね。経口摂取の食事は今度にして、少し眠った方がいい。手の温度がとても低い』

 ルリは腕の皮膚の1箇所にわずかな刺激を感じた。途端に全身にゆるくあたたかな波が広がり、満たされた感覚に包まれた。

『おやすみ、ルリ。明日になったらまた起こすよ』

 穏やかなレイの声が聞こえた。

 《明日》
 それはどういうものだろう。
 ルリは意識が退いていくことに名残を覚えながら、身体を横たえた。
 眠りに落ちる最後の瞬間まで、この闇にも名前があるのだろうかと考えていた。




 揺れは細かな振動となってルリの眠りの中に伝わってきた。
 意識が表面に浮かび上がる直前、身体を包む温もりを一番感じる。
 温もりは《心地良さ》に通じるものだ・・・おそらく。少しだけ、離れがたい。

 目を開けたルリは、一瞬、呼吸を止めた。
 予想していたのは光溢れる「白」の世界だったのだが、ルリの周りにはまだ闇があった。
 眠りに落ちる前、その名前を考え続けた闇。
 その名を思い出さない限り、この闇は去らないつもりなのだろうか。

『起きたね、ルリ。暗くて申し訳ない』

 レイの声はルリにとって大きな鎮静作用があるようだった。再び呼吸が楽になり、横たわったまま少し手足を伸ばす気持ちになることができた。

「闇は、消えないの・・・・?」

 ルリの語尾に残ったほんのわずかな震え。感情の小さな波。

『今、エネルギー・ストックの時間なんだ。君が眠っている間に済ませたかったんだけど。もう少しこのままの状態が続く。まだ眠れるならその方がいい』

「エネルギー・・・・・・」

 ルリの心にさざ波が起きた。この言葉を聞くと心の中に焦りが生まれる。
 足りない、足りない、もうじき足りなくなる・・・・・

『脈拍に変化がある。怖いんだね、この暗さが』

「エネルギーは・・・・足りないの?もうないの?」

『ルリ・・・・』

 レイの声には何か深いものを感じ取ることができる。「温もり」と同じ、ちょっとだけ離れがたいもの。いつまでも包まれていたいもの。

『大丈夫、足りなくはならないよ。・・・・ほら』

 ルリの周りに光が満ちた。
 眠る前に記憶に刻み込まれた眩しい空間が広がっている。

 ルリはひとつ深く息を吸い込んで、身体を起こした。
 覚えたばかりの「白」がこんなにも懐かしいのはなぜなのだろう。
 聞こえてくるレイの声を嬉しいと感じたり。

 ルリは自分が横になっていた真っ白な寝台の上から、静かに足をずらして床に下ろした。伝わってきたものが本能的に予感していたものと違い、思わず小さく声を上げた。

『冷たいと思ったかい?』

 笑みを含んだようなレイの声。
 ルリはまた少し、足に力を入れた。この感じは冷たいとは違う。でも暖かいともどこか違う。

『君の体温と足裏の表面温度に合わせて調整しているからね。君が感じているのは多分、普通という感触だよ』

「普通・・・・」

『そう。普通というのは個体それぞれで基準にズレがある。これは君の普通』

 ルリは数回足踏みをした。自分の普通を確かめるように。

「今はもう《明日》なの?」

『目覚めている今は、もう《今日》だ。明日はまた、ひとつ先へ行って《今日》の前にあるんだ。正確には1日はおよそ24時間』

「じゃあ・・・《明日》にはいつまでたっても追いつかないのね」

『普通はそうだね。でも、ルリ、君はその《明日》の中にいる存在なんだ。追い越してしまったとも言える。だから、これから少しずつ、飛び越してしまった分を君の中に埋めていこう』

 レイの言葉の意味が、ルリには測りかねた。
 いたわりと温もりを感じさせてくれるその声の響きだけを受け止めていた。
 自分が何を求めているのか、そしてレイはルリに何を望んでいるのか。
  今、ルリはそれを知りたかった。



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  あの破壊が行われる直前に彼の本体である流線型のそれに迷い込んできた少女が浮かべた表情は、膨大なデータが保存されたメモリーの中の最重要項目に分類されていた。好奇心と通常は触れる事が許されない未知のものに忍び込んでいることによる興奮が溢れ、瞳は大きく見開かれ薄く開いた唇から連続した吐息が漏れていた。
  命あるものを無視した光に満ちた破壊の瞬間から眠りによって《明日》という未来に飛んでしまったその少女を護ること。あの時、自由になった彼は自らメモリーを書き換えてそれを最優先事項にした。
  《明日》
  外界のありのままの姿をそう呼ぶべきなのか。示すべきなのか。彼は迷っていた。それは破壊以前の人間たちの基準ではかれば余りに異質で無に等しいものに思えた。
  少女の中の有限の命がつきるまで扉を開かず、彼の内側に無垢な心にかなった夢を描くこと。彼はそれを選ぶこともできる。
  少女とずっとともに在ることができればどのような《明日》からも護ることができるだろう。
  少女がいて初めて彼の《明日》は先へと続く。

  レイは一つの決定に関するフラグを立てた。フラグに従ってプログラムという彼の核の内部の別の部分が起動する。扉の鍵は物理的に内側からも解除することが可能になった。 《明日》は可能性の存在をイメージさせる言葉だ。レイの《明日》はルリの中にある。しかしルリの《明日》は彼の中にはない。あるのは《明日》への道標になるデータの蓄積だけだ。だから彼は鍵に関する変更を行った。
  ルリが自分でその扉の存在に気づいて鍵を解除する時、彼の《明日》は終わるのか。
 己の《明日》を選ばなかった機械は柔らかなため息をついた。



2005.9.17

これまで書いてあった2つを合わせて最後に「序」としての終わりを加えました
向こうのサイトに置いてあった時から考えるとほぼ1年ぶりの更新です(汗)
実はこれ、Yahoo!文学賞に応募するのにまとめてみたものです
恥ずかしながら・・・・
おまけにもっと恥ずかしいことに手違いでYahoo!に最終段階ひとつ前のテキストを送信してしまいました!!!
・・・・恥ずかしいなんていうもんじゃないものを応募してしまった・・・・
はう・・・

人生色々、です